自分の『好き』を知るには、それを知る過程が必要。
自分の『イヤ』を知るには、それを知る過程が必要。
言葉にすると当たり前だけど、自分以外なにもない"無"の状態だと何も知り得ない。
『好き』を発見すると同時に自分の『イヤ』を発見できて、
『イヤ』を発見すると同時に自分の『好き』を発見できる。
恐怖がイヤだと感じるなら、自分は安心が好きだとわかるし、
狭い所がイヤだと感じるなら、自分は広い所が好きだとわかる。
愛を体験できないことがイヤだと感じるなら、自分は愛を体験することが好きだとわかる。
必ず反対側があるのだと1つのことは教えてくれる。
でも、その1つの体験を起こすためには自分以外の存在がどうしても必要だ。
だから色々な人がいるし、色々な環境があって色々な物がある。
それらと交わることこそが自分を知る唯一のこと。
…とはわかってはいても、この世界。
どうしても『イヤ』をもたらす存在や環境、物と遭遇することが多い。
そんなときは排除したくなるぐらい『イヤ』を味わうこともある。
でもそんな『イヤ』と思えるぐらいの貴重な体験ができたときは、
『くっそ!ふざけるな!!』
と思う存分に感情を味わったあとでいいから、
『なるほど。わたしはああいうのがイヤなんだな。よ~くわかった。教えてくれてありがとう。』
と前を向きなおして、自分の望むものを認識させる1つの体験をくれたことに対して、静かに感謝を送ってみるのはどうだろう。
すぐには気持ちがそうならなくて当然だし、いつかそう思える日が来たらいいなぁ。ぐらいでもいい。
今はただ、ネガティブに見えているその1つのことが、その反対側と自分そのものを照らしてくれているかもしれないことに気づいているだけでいい。
『これがイヤなら、他の道があるんだよ。』
『こういうのがイヤなら、自分が本当に望むものは何か自分へ聞いてごらん。』
自分が排除したいものは、自分を知る貴重なきっかけを与えてくれている。
命と存在を懸けて、自分に『イヤ』というほど『好き』を見せてくれ、自分を知る機会を提供してくれている。
やっていることは到底許せなくていいから、与えていることだけに目を向けてみよう。
その瞬間、自分にとっての『イヤ』はただ在るだけに変わって、そして感謝に変わる。
自分への気づきと変化をもたらすものへ感謝を送ったとき、気づきと変化をもたらすものは自分と統合され、すんなりと役目を終える。
そのときに初めて、自分の世界に敵も排除するものも本当はなにもなかったと気づくことができるんだ。