今日は何度、涙が止まらくなっただろう。
『そんなに自分を罰しなくて大丈夫だよ』って何度、自分へ伝えただろう。
自分をどれだけ責めても、自分も誰も幸せにならないって本当は知ってるのに、ついつい『自分さえいなければ』という考えに思いっきり共振して心身が震えて止まらなくなる。
さらに震えている自分をも責めてしまい自分がもっとイヤになっちゃう無限ループ。
そんな凹み絶頂は今でもよく起こるけど、対処の仕方はある程度身につけた。
『そんな時、あるよね。』って、わざと自分へ何度も言うんだ。
最初は心から思えなくても大丈夫で、そのうち本気で自分と寄り添いながらも、わざとできるようになる。
だって、あるものはある。しょうがない。って開き直るぐらいがちょうどいい。
そうやって少しずつ今の自分の状態を認めて『今ある全てをただ観る』視点へと自分を移していく。
あるものをそのまま『あるなー』ってただ観る。ジャッジも要らない。
わたしの場合、その俯瞰に慣れてきたら、調子に乗って堪能しだす。
さっきまで背負っていた荷物を目の前に降ろして『ほほう』と作品として観る感じ。
『これが凹みに使用していた考え方ね。こりゃ重いわけだ。きつかったね。』
そうやって改めてまた自分と寄り添う。
わたしはこうやって何度も荷物を降ろしては、またいつの間にか担いで、気付いては降ろしてを日々繰り返してる。
飽きずに、諦めずに、そうしてる。
荷物自体は消えないけど、ほんの少しずつだけど1つ1つが軽くなっていっているのは感じる。なぜなら前より担いで降ろしての作業が短くなっているから。
無意識とはいえ、重たい荷物をたくさん抱えながら生きてきた人たちは、1日1日、一瞬一瞬を紡ぐことだってまさに命がけだったりする。それだけ必死に生きてきたよね。そして、それを自分が1番わかってるはず。
今日もあなたを生きてくれてありがとう。
今日もわたしを生きてくれてありがとう。
重さたっぷりな生き方は何とも息苦しい時が多いけど、その分、色々なことに感動できるって信じてるし確信してる。今日の荷物もあったからこそ、この記事は書けたしね。
色々な自分を抱きしめながら、次の瞬間も自分だけの体験を生きる。