夜にブログを書くのは久しぶり。
どうせ書くなら人に読んでもらいたい時間にUPしたい気持ちは正直ある。
でも、そのときじゃないと書けないことがあって、その旬なときに載せたい気持ちもある。
兄が家を建てるために、ばーちゃんチが取り壊された。
ばーちゃんが死んで約半年。こんなに早く目の前から家までなくなるとは思ってなかった。
ばーちゃんチの横の貸家だった家も取り壊したけど、2つの古い家を壊すのに4日もかからなかった。重機の故障がなかったらきっと3日で全て瓦礫になってたはず。
壊されることに抵抗がないつもりだったし何とも思わないつもりだったけど、ほとんど使った記憶のない貸家の台所が重機で瞬殺された瞬間になぜか涙が出た。
餅つきのとき、ばーちゃんや親せきの人たちと一緒にお湯を沸かしただけなのにさ。
それとほぼ同時に頭の中に、ばーちゃんなのかじーちゃんなのか自分の妄想なのかわからないけど「ゆきさん、ちゃんと見ときなさいよ。」って声が頭で聴こえた気がした。
貸家が取り壊され、いよいよばーちゃんチ。
よかったら動画を撮っててほしいと妹が言っていたので、見たいような見たくないような気持ちを抱えつつもばーちゃんチの解体をなるべく近い距離で動画に収めた。
玄関が壊されるのを見るのはとても耐えられそうになかったから、取り壊しが始まって少ししてから撮影した。
最初のうちは何事もなく撮れたけど、ダンプに阻まれてよく見えない場所へ重機がどんどん進んで行って、ガッシャンガッシャン容赦なく家をぶち壊していく音が聞こえる。
そのうち、割れるガラスの音が絶え間なく聞こえた始めたときに、いよいよ壊されてるっていうリアルが迫ってきて思わず涙が出そうになったため、その場から撤収して自分の家のリビングで少し泣いた。
そのときの自分は泣いた理由がよくわからなかった。
寂しいと思うには変だったから。
小さい頃にはよく泊まりへ行ったばーちゃんチだったけど、社会人になってからはあまり近づきたくない場所になっていた。でもそれは無意識だったし、そういう風に思うのはよくないって信じてたから、「いい孫」を演じて我慢して行っていた。
20年ほど好んで行きたいと思う場所ではなかったのに、なんで涙が出るのか。
不思議だったけど、結構簡単にわかってしまった。
小さい頃の自分にとってばーちゃんチは唯一の逃げ場だった。
正直、ばーちゃんチでも本当の自分では居られていなかったけど、自分が居てもいい唯一の別の場所。
自分のなかにも自分の外にも安心する場所がなかったけど、ほんの少しだけ違う愛を感じられる場所がばーちゃんチだった。
「安心できる場所がなくなってしまう」
流れた涙は幼い自分そのものだった。
大人になってから、ばーちゃんチは安心できる場所ではなくなっていたのに、それでも小さな自分にとっては逃げ場のままだった。そのことに気づいたから、今の自分が自分へ伝えた。
「小さい頃は、ばーちゃんチが逃げ場だったもんね。だから悲しかったんだね。
でも今はもう自分が居る場所を自分で安心の場所に変えられるから大丈夫だよ。」
恐怖を握りしめている自分の奥底が癒されたかはわからないし、今これを書いていても涙が出るから全て手放せたわけじゃなさそう。でも、取り壊しという変化を目の前で見なければ気づかなかった自分の気持ち。
それに、取り壊し中に気づいてしまった。
「わたしが見なかったら、お世話になったばーちゃんチを看取る人が工事のおじちゃん以外誰もいないじゃないか。」って。
自分の都合だけで見たいけど見たくなかったばーちゃんチの取り壊し。
でも急遽、最期まで看取らなくちゃと強く決心した。
あちこちが朽ちてスカスカになっていた古い家は、まるで舞台の張りぼてセットみたいに簡単に壊れていった。その様子をスマホの熱暴走に負けずに動画で撮った。
最期、家だった形のものがなくなったときに頭をさげて「ありがとう」だったか「お疲れさま」だったかを伝えた。気持ちはどっちもあったから、どっちも言ったかもしれない。
今回のばーちゃんチの件を含めてなんだけど、何かを愛せている状態ってすごく大事だって最近思うようになった。
ちょっと何言ってるかわかんないって人もいると思うけど、無条件に何かを愛せているって、本当の自分の状態だって自分は思ってる。
自分のこと、誰かのこと、動物、自然、物、何でもいい。
床に落ちたゴミを拾ってキレイにする行動一つにしても、家を愛してるし、そこで生活する全ての人たちを愛してる行為だと思う。
自分がトイレに行く、食事を摂る、好きなことをする。何でもいい。
生きてることは自分を愛する行為そのものだ。
わたしは毎日、愛猫へ「愛させてくれてありがとう」と言うんだけど、何かを無条件に愛している時間が多ければ多いほど、その瞬間、その場所、その空間は安心に包まれる。それに気づいた今は、安心を自分で創り出すことができる。
安心でないときは、大抵、何かを愛せていないとき。
そんな愛せていない自分さえも愛してしまえばいいのだけど、人間はなかなか不器用だからそんな気分にならないときもある。そんなときもまた、それでいい。
本当の自分へ戻るための足掛かりは目の前に山ほどある。
「ゆきさん、ちゃんと見ときなさいよ。」
見て、感じて、愛して、自分を生きる。
そんな気持ちの着地をすることになるとは思わなかったけど、ふと聞こえた声は大事な気づきへ自分を導いてくれた気がする。