先日、ばーちゃんが死にました。
少し前の記事で、自分勝手な葛藤を載せたのがずいぶんと前のことのように感じるけど、その件については、ちゃんと"ケリ"をつけられました。
『どうしたらいいの?教えてよ!』
と、1人で泣きながら心の叫びを飛ばしていたら、次の日の早朝には「ハイどうぞ」と言わんばかりにとある動画が目の前に降ってきた。
「イヤな過去を何度も思い出すことは自分への虐待」
あー。答えが出せなかった理由はこれだわ。ってすぐにわかった。
これをやめない限り、自分を含めた誰ひとり許せないってことも。
数日後には覚悟を決めて、妹と妹の息子で最後のお別れを言いにばーちゃんの元へ向かった。会うのは2か月ぶり。
2か月の間、会いに行こうと思えばいけたはず。
でもわたしは被害者モード全開で、ばーちゃんにどこかで復讐してたんだと思う。
ばーちゃんに依存して、イヤな気分になって。ずっと過去にいた。
まさに自分への虐待。
その虐待をやめるためにも、自分を本当に許すためにもばーちゃんに会いに行った。
ばーちゃんのことを想うイイ孫なんかじゃない。全部自分のため。
面会用の5分間のタイマーを渡されたけど、5分じゃ最後のお別れなんてできるはずもなく、アラームが鳴ったあとの2~3分を使って、ばーちゃんの手を握って目を合わせながら「ありがとうね」「色々教えてくれてありがとう」「たくさん愛してくれてありがとうね」って、渾身の力を込めて伝えた。
泣かないつもりだったけど、泣いた。
手を握ったままばーちゃんの薄くなった胸に顔を埋めたら、頭をポンポンと撫でてくれた。
ばーちゃんも声なき声で「ありがとう」と口をぱくぱくさせて、そのあとに両手を合わせながら宙へと掲げて、泣きそうな顔で「ごめんね」なんて口をまたぱくぱくさせるもんだから、「何も謝ることなんてないよ!ばーちゃんは神様なんだから、何も間違ったことなんてしてないんだよ!」って、必死に伝えた。
こういう話が苦手な人もいるだろうけど、わたしは全ての存在が「神」とか「エネルギー」とか「愛」だとか思ってて、それを表す言葉は何でもいいんだけど、結局全てが1つだと感じてる。
概念で振り分けがちな人間からすると、正解や間違いがあったほうが納得できることも多いかもしれないけど、本当の本当は何も問題がないことをとある経験で知ってる。
知ってるだけで上手く使えてないことは山のようにある。
今回のこともそうだったけど、ばーちゃんのおかげでまた1つ気づいて変えられた。
無条件の愛の状態で自分のことを許して、ばーちゃんに言いたいことを言えたおかげで、過去のことを思い出してもイヤな気分にならなくなった。
「色々あったね」
「ばーちゃんも大変だったね」
「わたしも1つ1つ楽になっていくね」
そんな言葉に集約できるようになった感じがする。
誰かを許す前に自分を許す。
まさか自分で自分を虐待しているなんて思わなかったけど、気づいたらやめられた。
そんなことで…と思ったけど、そんなことだった。
葬儀も無事に終わって、今はばーちゃんが好きだったチョコレートボンボンとか煎餅をせっせと祭壇の前に運んでる。少しでも香りがたつようにボンボンも割ってる。
「死ぬまで勉強」とよく言っていたばーちゃんから、最後の最後まで勉強をさせてもらった。
全ての完璧さに、ありがとうを伝えたい。
ばーちゃん、本当にお疲れさまでした。
ありがとうございました。