久しぶりに料理をしたら麻婆茄子が美味しかった。
(野菜を切ってソースを混ぜるだけの簡単なやつね。)
普段に料理をしないからこそ、
作り出すとちょっと楽しくなって少し料理をし続ける時期がくる。
片付けのほうが好きなわたしにとっては、料理とはそのぐらいの距離感が心地良い。
さて、料理の久々ほどではないけど、
前回の記事も久しぶりに少しだけ突っ込んだ内容を書いてみたよ。
右と左。
天使と悪魔。
善と悪。
正解と不正解。
こういう話は過去に何度か書いてはいるけど、
分断で統治をするやり方は世の常套手段だから冷静でいたほうが動きやすいよって話。
庶民にAかBかで争わせてどちらかに必ず答えがあるはずだ!と戦わせるんだけど、
本当の真実はAにもBにもなくて別のところにあるわけ。
誰も氣づかない別のところに居たら楽だよね。批判も指摘もこない安全地帯だもの。
しかも、
庶民同士の争いを利用して大義名分で都合の良いこともたくさんできちゃうおまけ付。
戦争とかその最たるものだと思うよ。
こんなことをわざわざ書くのも、
天使と悪魔みたくAとBを使って戦わせたい人たちが今たくさん出てきているからね。
(戦いたい人たちは別にいいんだけど、戦いたくない人たち向けの情報が少ない。)
自分が好きなものが、ただ『好き』であるならそれでいいと思う。
自分が嫌いなものが、ただ『嫌い』であるならそれでいいと思う。
自分が、どちらも『在る』と認められるならそれでいいと思う。
(認めることは従うという意味ではないよ)
でも、
戦わせたい人たちは『在る』こと自体を許さない。
この神さま(仮)以外は神さま(仮)ではない!
悪魔は滅ぼすべきだ!
あの国は滅ぶべきだ!
ワ九チンを打っていない人は排除だ!
とまァ、分断ネタは色々とあるよね。
絶対だと教わった正義を自分と誰かに押しつけることで本当に平和になるのかな?
アニメや映画だとヒーローが悪を退治した世界は平和だね。
自分が思う悪を退治したら現実も平和になるのかな?どう思う?
人間は愛を望むことが多いけど、
人間のジャッジをもったまま本当の愛を体感するといとも簡単に圧倒されてしまうよ。
だって、この世界だけに通用するジャッジそのものが通用しない意識だから。
全てを『在る』と認めるしかなくなる。
それがどれほどの混乱と安心をもたらすかは体験しないとわからない。
わたしは、どんな存在だろうが何だろうが別に居るならそれでいいと思っている。
でも、
これ(存在や考え方)は正しいが、これ(存在や考え方)は間違っている。とかいう、
誰かが決めたジャッジ(分断)の声は聞かない。
それはわたしの声じゃないし、愛じゃないから。
自分なりに信じていることや納得していることがあるなら、
ただ楽しく我慢せずに行動に移せばそれでいい。
それに従わない他の誰かを弾圧したり糾弾したり排除、攻撃なんて別にしなくていい。
本当に愛を選ぶなら、
誰かが決めたジャッジと選択肢に踊らされて誰かのために戦うよりも、
『色々な視点や正義があるんだな~。』と冷静&客観的になって知り、
コントロールをせずにさらりと通り過ぎることができるかどうかじゃないかな。
本当の愛は、光VS闇のような人間臭いものじゃなくてもっと自由だよ。
全てが在ることを面白がりながら、1人ひとりが自由に楽しく遊べるといいね。