~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

1人だろうと、自分だからこそ力がある。

自分にとって大事な人や物、存在という意味合いのトクベツはあると思う。

でも、存在そのものにおいてのトクベツはないと思っている。

 

お金をたくさん持っていても、

素晴らしい肩書があっても、

血筋が素晴らしいとされていても、

 

同じ人間。

同じ存在。

 

お金を持っていなくても、

仕事をしていなくても、

罪を犯したとしても、

 

同じ人間。

同じ存在。

 

その存在が、今そうである。今ただその経験をしている。というだけのこと。

もし『違う!』と感じるのなら、それは誰かが決めた価値観で自分や他の存在をジャッジしているだけだったりする。

 

こんなシーンはどうだろう。

 

自分とは関係のない生まれたての赤ちゃんを10人見せられて、

「この中で、存在がトクベツの赤ちゃんを選んでください。」

と言われたとき、

 

「この子たち1人ひとりは誰かにとってのトクベツな存在ではあっても、

 存在自体がトクベツな赤ちゃんは誰1人いません。」

と多くの人は言うかもしれない。

 

では、

その赤ちゃんのなかに皇族の赤ちゃんがいたらどうだろう?

 

「トクベツな存在の赤ちゃんはいない。」と口ではみんな言うかもしれない。

けど、本当に差別なく、本当に同じように、本当に同等に、扱うだろうか。

 

この子には、さんを付けるけど、この子には、様を付ける。

生まれた瞬間から多くのことが保障されている命と、そうではない命が誕生していることは黙認されたなかで等しくこう教わる。

 

みんな同じ人間です。

差別はいけないことです。と。

 

これは皮肉ではなく事実だし、

今あるシステム自体を否定する気は全くない。だからといって正しいとも思わない。

これが国の文化だから。という思いを否定する気もなければ、正しいとも思わない。

今がただそうである。という視点で観ているだけだ。

 

そんな『今がただそうである』からこそ、わたしなりに1つ伝えたいことがある。

 

今一度、意識的になってみるのはどうだろうか。

ということだ。

 

わたしたちの多くは、何気なく誰かの正解を遂行していることに気づいていない。

 

『わたしには自分のことを決める価値(権利)などない』として、誰かの指示を待ち望むことを教えられ、刷り込まれてきた。そのことに一度気づく必要がある。

 

ここでも敢えて言うなら、気づくのが良くて気づかないのが悪いという話ではなく、気づいたなら選択肢をもって別の角度から今の世界を体験できる。というだけだ。

 

自分をコントロールできる人間がいると信じ込み、その人間の指示に従っていたほうが怒られないし、周りからも浮かないし、自分で責任をとらなくていいから楽だ。と無意識と体感で学ばされてきた。

 

だから、自分で選んでいる気になっているけど、実際のところは誰かのルールや正解を選ばされているだけだったりする。

 

大袈裟ではなく、意識的にそのことについて気づいているか気づいていないかで、体験する世界は大きく変わる。

 

なぜなら人生は選択の連続で、その選択の際に、本当に自分で決めているのか?それとも誰かの正解に気づかないまま乗せられているのか?では、体験する内容が違ってくるからだ。

 

自分が自分をどう扱っているか?

いま1度、意識してみてはどうだろう。

 

全ての存在が、自分と本当に同等であると自分は本気で思えているだろうか?

 

もし、自分より上の存在がいると思っていたり、トクベツな存在がいると思っていたり、下の存在がいると思っているなら、真っ先に自分こそが自分という存在へ価値のジャッジを下していることに気づいているだろうか?

 

無意識のまま人と比べ、自分には力がないと思っている間は誰かに依存する。

1人では何もできないと無力を感じるように信じ込まされているので、

集団にならなければ何も変えられないと思考停止になってしまう。

 

そんなときこそ、それは本当だろうか?と意識的になってほしい。

 

1人だろうと、自分だからこそ力がある。と気づいている人は、目の前の人にも同じ信頼をよせる。期待ではなく、信頼をする。

 

自分を生きることを諦めず、自分を無力な存在にせず、自分の人生に責任をもつために、この瞬間の自分が自分の存在をどう扱っているか丁寧に感じてみよう。

 

変化の激しい今だからこそ、意識をして本当の自分を生きられたらいいと思う。

 

自分のなかからトクベツがなくなったとき、本当の自分を思い出せるから。