~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

見えていることと見えていないことのバランスをとる

ここから先の時代は、目に見えていることと目に見えていないことのバランスをとることがとても大事になってくると思う。

 

見えない界隈のブームが17年ほど前に起こり始めてから、たしかに目に見えないことへの関心をもつ人が増えた。目に見えないことへの出来事に疑い深かったわたしも、自分がまさか幽霊を見たり感じたりするなんてことになるとは思わず、一体何が起こっているのか?どういう意味なのか?と答えを知りたがっていたのも同じ時期だった。

 

仕事をしながら無意識に、ときにはどっぷりとスピにハマり、ときにはネトウヨ万歳になったりしていたのちに、ひきこもりになった。

 

今それらのハマりっぷりを思い返すと、ずーっと誰かの答えを信じているだけだった。

『知識のある人が言っているから』『能力のある人が言っているから』

それだけで自分の思考を染めていたのがよくわかる。

 

そういう時期があっていいと思うし、それが悪いとも思わない。

けど、わたしの場合はそういう時期、ずっと誰か(自分含)を憎んでいるような状態だったけど、そのことには全然気づいていなかった。

 

ひきこもりになったあと時間はかかったけど、自分の思考に疑問をもち、社会に疑問をもち、目に見えない領域の大きな意識を体験した今は、驚くほど静かな感覚をもてるようになった。

 

その過程で3回、目が覚めた気がしている。自分を意識するようになった1回目。社会のおかしさに気づいた2回目。そして、大きな意識を体験して【何も問題がない】と気づいた3回目。

 

この2回目の気づきで勘違いをしていた時期がある。

目に見えない界隈の話で【目覚め】というワードはよく出てくるけど、社会のアレコレを知ったときに『これが目覚めか!』と早合点していたことだ。

 

もちろん、今まで知らなかったことを知るという点では目が覚めたことには変わらないけど、いわゆる【愛(本当の自分を思い出す)】体験という目覚めではなかったんだよね。

 

でも次があるなんて知らないから、しばらくは最終的に目が覚めた気分だった。

だから、社会のアレコレを知るたびに勝手に敵を増やし、本当の自分から自ら遠ざかっていたことにも気づかなかった。

 

『全てを奴隷だと思っている存在たちがいなくなったらいいのに!』

『ウソばっかり伝えるような人たちがいなくなればいいのに!』

 

そうやって、ずーっと心が戦ってた。

ずーっと、何かを排除しようとしていた。

目が覚めたはずなのに、目が覚めなきゃよかったとさえ思った。

 

今、以前のわたしと同じく、そういう状態になっている人たちが多いんじゃないかと思ってこれを書いている。

 

正直、2回目以降の目覚めがどのタイミングでくるかは人それぞれだし、目が覚めることが良いとか悪いとかそういう次元の話でもない。

 

ただ、【全て】は【全て】があるからこそ【全て】として存在ができ、豊かであるということを腑に落とすことができたら、自分のなかが勝手に静かになっていくことだけは伝えたい。

 

本当は善悪すらなく、良い体験も悪い体験もなく、全てが等しく尊い体験であり、全てが等しく尊い存在であることを、本当に本当に理解することができたら、平和を望まなくとも自分が体験する世界は勝手に平和になることを伝えたい。

 

太陽、月、風、雲、雨。どれも違うカタチで存在しているけど、全てがあるからこそ豊か。

 

猫、鳥、ゾウ、毒ヘビ、ミジンコ。どれも違うカタチで存在しているけど、全てがあるからこそ豊か。

 

特性も動き方も違う、鳴き声も行動も違う、だけど違いという全てがあるからこそ【全て】は【全て】として存在ができている。

 

人間も同じ。1人ひとり個性がある。見た目でも違うし考え方も違う。

そこに正解を設けて、間違いだとか排除しなくてはいけないとか躍起になってしまうことは、目に見えない領域で【全て】そのものである自分自身に対して「間違いだ!」とか「排除しなくてはいけない!」と言っていることと同じになる。だから結果的に誰かではなく、自分が苦しくなってくる。

 

そういう意味でも、見えていることと見えていないことのバランスをとることが大事。

 

自分の意見は言っていい。自分の意見は大事にしていい。でも、それが全てにおいての正解ではないことをよく理解しておく必要がある。

 

伝えたいことは色々あるけど、本当のところはわたしが知っているのではなくて、あなたこそがすでに知っているということをここでは伝えたい。

 

1つの正義感に飲まれず、誰かを救世主として崇めるのでもなく、誰よりも自分を信じて、集団にならずともたった1人で自分だけの音を大事に奏でることは誰でもできる。

 

それぞれがもつユニークな音を、それぞれの存在が奏でようとしたとき、仮に自分が苦手な音があるのなら、『その音を変えなさいよ!』とか『やめなさいよ!』と言うのではなくて、

 

『わたしにとってその音は心地がよくないので離れます。』と、ただ意図して行動するだけでいいと思うし、そのほうが自分にとっても全てにとっても心地がよく、豊かになることを何となくでいいから想像して感じてもらえるといいかなって思う。

 

今回はだいぶ記事が長くなっちゃったけど、今こそ本気で自分を信頼するときが来てると感じるよ。裏を返せば、目に見えていることだけを安易に追っていくと、簡単に迷子にもなれるとき。

 

わたしもたくさん迷子になった経験があるからこそ、あまり遠回りしなくてもいい1つの考え方として今回の記事から何かを感じとってもらえると嬉しいです。

 

ではまた。