~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

遊ぶために疑う

"疑う" と言えば何となく悪い印象で、"疑問をもつ" と言えば何となく賢そうだ。

 

そういう "何となく" も、

もれなく生きてきた間に培った概念なのだから面白い。

 

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子どもの頃、わたしはメロンが大嫌いだった。

 

味は知らないけれど、テレビや絵本のなかではいつだって美味しそうなメロン。

 

なのに、

わたしの初メロンは、水分もほぼほぼ消えた青臭い胡瓜味だった。

 

保育園でおやつの時間に出されたが、園の側溝に速攻吐き捨てたほどひどい味だった。

 

【メロンは不味い】

 

4~5歳で記録されたメロンの苦い体験は、その後10年ほど覆ることはなかった。

 

果肉がとろとろで食べ頃であろうメロンを見ても反応は同じ。

 

【メロンは不味い】

 

だから、自動的に食べないことを選び続けた。

 

 

がある時、父がこう言った。

 

「このメロンは美味しいから食べてごらん。」

 

もちろん、わたしの反応は思いっきり顔をしかめながら、

 

「えぇぇぇ~~(;´Д`)」

 

である。

 

だが、あんなクソ不味い胡瓜味を、

 

「美味しいよ~♪ 甘いよ~♪ (*´ロ`*)♡」

 

などと言いながら目の前で頬張る人間がいるのだから、

それはそれでおかしいとも思うのだ。

 

結局、半信半疑でメロンの真ん中部分を一口食べると決めた。

 

口に入れた瞬間の甘さと驚きを言葉で何と言ったかはもう覚えていないが、

食べた後に思ったことは今でも覚えている。

 

『これがメロンの味だったのかァ…。

 こんな美味しいものを今まで食べてこなかったとは…。

 嗚呼、なんともったいない!あの胡瓜味め! orz』

 

だ。 笑

 

自分が頑なに拒んでいたものが一瞬にして覆された時、

何ともいえない氣持ちになるのだということも身をもって経験したが、

それよりも疑問をもった自分を信じて行動した結果、

新しい可能性を確と得られたことがその時はなにより嬉しいことだった。

 

こんな具合に、自分の信じていたものがひっくり返る経験は誰しもあると思う。

 

食べ物だけで考えると苦手なものはやはり苦手。ということもあって当然だろうが、

常に疑問だけは持ち続けて、

『もっといいものはないか?次こそは面白い経験ができるのではないか?』

という希望はあってもいいのではないかと思う。

 

ひきこもりになって、自分の価値観を変えたきっかけも根底は同じなのだ。

疑問をもつ→知る→行動する。

これだ。 

 

『もしかして、そんな風に考えなくてもいいのかも?』

『自分が絶対だと思っているような絶対はないのかも?』

 

そんな感じで、

自分の信念やら価値観に疑問を持ち続ければ、何かと得られることは多い。

 

1種類のりんごの断面だけを見て、

『りんごとは白くて種がある』と、りんごを知ったつもりでいたが、

実は果皮が赤や青、黄色であったり、果肉までも赤色のりんごがあると知ると、

自分が知っていると思っていたことも、たったその一部に過ぎなかったことがわかる。

 

その一部も自分にとっては大切な正解(視点)だが、

さまざまな正解を知ることによって、

今度は知った上で自分が望むものを選ぶことができるようになるのだ。

 

自分が信じていることに疑問をもつことは勇気がいるけれど、

実際はメロンもりんごも出来事もただ存在をしているだけで、

それを『こうだ!』とジャッジいるのはいつも自分なんだよね。

 

結局、目の前のものは常にニュートラルでただ在るだけ。 

だとしたら、面白く見たほうが楽しいではないか。

 

目の前のものを見たいように観て遊ぶために、疑問を使ってみてはどうだろう。

 

疑問を使いこなしていければ、新しい視点で、新しい世界を体験できる。

 

わたしも、まだまだ美味しいメロンはたくさんあるはずだと信じて疑っているので、

もっともっと美味しいメロンにいつか辿り着くはず。(希望)

 

疑うことは、否定することや信じないことじゃないよ。

この世界の可能性をもっともっと広げるためのテクニック。

 

使って遊ぼう。

今ならもれなく無料だよ~。٩(●˙▿˙●)۶笑

 

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