人にちゃんと教えられる。
なんて思うのは、ただの傲慢というものだよ。
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人生であらゆる"問題"にぶち当たった時、それを乗り越える体験は人それぞれだ。
うまくいった、うまくいかなかった。
それらにも全てその人それぞれの体験がある。
これが正解だとか、こう言えばわかるはずだとか思っても、
結局行きつく先は人それぞれ。
何かしらの公式がしっかりとあって答えもあるはずなのに、
そもそも公式の意味がわからない人だって居る。わたしだ。
ではそれが迷子か?失敗か?未達成か?莫迦か?と判断をするなら、
わたしなりに考えた末、行きついた先でありそれ以上でもそれ以下もない。
としかならない。
もちろん、人に教えるのは自由だ。
でも、自分がもっている知識や体験だけが絶対であるなどとは決して自惚れないことだ。
人は思ったよりも柔軟で何時の時も解決できる術を自らで見つけようとする。
自分の體と自分の置かれた環境で生き延びるために、どうにかしようとする。
だから、
人がどうにかしようともがいている時は、心は寄り添いつつ放っておけばいいと思う。
"問題"を見つけられたことを言葉なくとも一緒に喜び、
何かしらの助言を述べたとしてもこれも1つの意見でしかないと伝え、
いつかその人だけの答えが見つかることを信じて、ただ待っておけばいい。
これは、
目の前の人の人生を信じられているか?という話でもある。
そして、
自分の人生を信じられているか?という話でもある。
なぜか?
自分の人生を信じられている人は、
人の数だけ答えの数があることも腑に落ちて知っている。
『あなたの答えなんてわたしの知ったことではない。』
答えを押しつけないと言えば聞こえはいいが、
それはある意味とてもドライに感じるかもしれない。
でも、それらを乗り越えてきた人たちは知っている。
この人だけが味わうとっておきの"問題"という名の経験から、
この人だけの美しい体験が紡がれていく。それらは必ず起こり、必ず終わる。と。
体験をその瞬間、どう感じたか?
そこに誰かの答えは必要ない。
誰かの助言もただの助言でしかない。
頭で理解をさせることより、その人だけの感覚をうまく引き出してあげればいい。
こうやって自由に教えているこの記事も、
人それぞれの体験の前ではただの傲慢でしかない。
わたしの入る余地なんてないぐらい本当に見事で完璧な人生をみんな生きている。
だから、うまく教えてあげられなくても大丈夫。
あなたも、あなたの目の前の人も、わたしも、驚くほどうまくやっているから。
それを本氣で信じるだけだから。