~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

ここまで生きてみて本当によかった

音が変われば人も変わる。

 

頭では大丈夫なのだとわかっているのに、いつも微量の罪悪感を感じるシーンがあった。

夜中に両親が寝ている1階へ降りて台所の電気をつけ、食べ物や飲み物を準備するとき、微量ではあっても必ず『迷惑をかけてはいけない』という信念のもと意識が外へ向く。何気ない気遣いからではなく無価値観からくる恐怖だ。

 

毎度訪れる罪悪感に『大丈夫。気にしなくていい。』と必ず合いの手を入れていたわけだけど、今回はいつもと違った。

 

『あれ?わたし1回も(罪悪感)感じてない…?』

 

炭酸水のペットボトルを持った瞬間、外側へ意識が一切散らかっていなかったことに気づいた。コップに梅酢を注ぎ、寝ていた母が一瞬起きて時刻を聞いてきたにも関わらず、わたしは炭酸水を冷蔵庫から取り出して梅酢ソーダを作ることだけに専念できていた。

 

少なくともわたしの人生のなかではかなりの衝撃。こういうシーンで自分のことだけを考えて動けた体験がほぼ皆無だったから。

 

そして、出来上がった梅酢ソーダを美味しく飲みながら考えた。

『なんで罪悪感を感じなかったのか?なんで外側へ意識がいかなかったのか?』

答えはすぐわかった。

 

梅酢ソーダを作りにいく寸前、自分の内側(自分の音)に深く調律をかけていたからだった。瞑想などをしていたわけではなく、単に自分をとことん安心した状態へもっていっていた。

 

そんな自分に集中した深い安堵感の音のまま『あ、梅酢ソーダ飲みたい♪』となったものだから、罪悪感を体験しないという体験ができた。罪悪感という重い音と共鳴する隙がなかったともいう。

 

実家の台所で罪悪感を感じられるタイプの人がどれだけ居るかはしらないけど、わたしはそのタイプだったからこそ意識の状態だけで自分の感じ方の違うことにすこぶる驚き、感動できた。

 

自分が今どんな音(意識)にチューニングをかけているのか?本当にそこだけなんだと確信がまた1つ増えた瞬間だった。

 

梅酢ソーダは昨夜のことだけど、ここ最近は6~7年前に観ていた意識(エネルギー)の話を再度聴きなおしている。あの時は生きようとすることに必死で、何となく安心はすれども何の話をしているのかさっぱりわからなかったことが、今は確かな感覚を伴って本気で深く頷ける。何を指して話をしているのかもよくわかる。

 

自分を変えようとしてから6年。大きな意識に触れたあの時から約2年半。ようやく全ての点と点が繋がってこれがさらに深い安堵感となっている。

 

ここまで生きてみて本当によかった。

これでようやく本当の自分を生きられる。

 

大袈裟ではなくて、腹の底からそう思えること自体が希望であり喜びそのもの。

本来の自分の音で生きるコースは始まったばかりなんだけど、すでに達成感がすごくてここで死んでも悔いがないと思えるぐらい12月に入ってからずっと感動できている。

 

この感動と満足感とともに、これからもっと知らなかった希望と喜びを感じられるはずだと本気で信じられる。ここまでも本気だったけど、これからもますます自分を本気で信じていく。

 

自分という音を引っ提げながら最高の別人になってやるんだ。

本当の音は何1つ変わらないことをもう知っているから。

 

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