~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

反抗期

ここ最近、夕飯を急いで食べてしまう。

落ち着いて食べればいいとわかっていても、

『早くこの場から立ち去りたい』という気持ちのほうが勝って無言で胃に片付ける。

 

夕飯ぐらいは家族で。という思いは多少なりとあるし、母は居ても気にはならない。

 

気になるのは父だ。気にしたくなけど、気になる具合が反抗期かよって思うけど、

関わるのが本気で面倒くさくなってしまった結果、今は全部がうざく感じる。

やっぱり反抗期なのかもしれない。

 

自分が心を閉ざしていたと気づいてから5年をかけて改めて両親と向き合ったけど、

父のキレイな言葉は知識だけのものだとここ2年で気づいて、度々がっかりしてきた。

わたしの子ども時代にはなかった父のちょっとした変化に大きな期待をしてしまった。

 

仕事柄、心理学を勉強したらしい父だけど、

キレイな言葉を他人へ渡すわりには父本人は自身と向き合えていないのだと、

わたしが自分と向き合えば向き合うほど父の言葉と行動との矛盾に気づいてしまった。

 

もう止めよう。もう諦めよう。

そう決めてから早1年ぐらい。

 

何を止めて諦めたかと言えば、父との新たな関係性を構築する作業を。だ。

もっと言うなれば主人と奴隷ではなく、親と子の関係性を再構築したかった。

 

恐怖で従ったり言わなかったりしてきた習慣に終止符を打つと5年前に決めて、

自分の素直な気持を話してみたり父の意見を色々な角度から受け取ったりした。

 

わたしが思っていた『父はこういう人!』という決めつけを1度捨て、

『今どんな状態の人か?』だけにフォーカスをしようと思ったからだけど、

『もうこれ以上は無理だな』って1年ちょっと前に感じたから作業をしなくなった。

 

自分の思い通りにいかなかった時、

相手を選んではけ口にしてコントロールをかけ自分の優位性を確認する。

 

教科書どおりの知識で『ひきこもりの子どもを待つ』ことは一応できた父だったけど、

衝動的なマウント行動は、わたしの子ども時代となんら変わってなかった。

外面はいいけど家の中では自分が絶対!だった祖父と全く同じ路線。

 

『俺は親父みたいな人間にはならない』と思いながら生きてきたらしいけど、

残念ながら同じものを持ってることを認識したうえで変えていかないと無理なんだわ。

わたしも含めてさ。

 

でもね、父が変わる必要がないのは重々承知。

わたしが変わればいいだけで、わたしが父に対して無駄な期待をしなければいい話。

 

わかってる。

相手を気にすればするほど依存しているのも知ってる。

自分の寂しさが執着になっているのも知ってる。

 

けどさ、キレイな言葉で安心させてくれる父親なんて30年見たことなかったからさ、

まるで父親と子どもみたいな時間で本当に嬉しかったんだよ。

 

でも夢の時間はやっぱり夢だった。

子どもを安心させたいという気持ちだけはウソじゃなかったと信じたいけど、

矛盾と落差がひどくて今は何を信じていいかわからないし、もう知りたいとも思えない。

 

おかげさまで自立するにはいい傾向なのかもと思ったりもするけど、

現在進行形で一緒に暮らしているからこそどう接して良いのかよくわからない。

 

反抗期の子どもってこんな気持ちなのかな?

わたしは反抗することもできなかった子ども時代だったから今がチャンスだったりして。

 

愛して欲しいのに愛されない。

愛してあげたいのに愛せない。

 

きっとね、父もどこかで葛藤してるんじゃないかなって思ったりもするんだ。

本当に不器用な親子だよね。括り的には親子だけど、他人と他人。これが人の基本。

 

お互いのためにも、何か次のステップが見つかるといいんだけどね。

悩んでいても仕方ないから、まずは今できることを探してやっておくしかないかな。

 

今日の夕飯には、

鶏胸肉とピーマンを使った青椒肉絲と、鍋いっぱいの野菜スープを作ったよ。

せっかく自分で作るのだから、もっとゆっくり美味しく食べられるようにしたい。

もったいないもん。笑

 

ゆっくり、1つずつ、がんばるよ。

 

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