~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

年末年始はそれを全てやめてみた

身内が寺をやっていたこともあって、

わたしは小さな頃から宗教的な作法をたたき込まれてきた口だ。

 

晦日の夕飯前、年が明けた直後、元旦の食事前と、

倣わしにそって年末年始は仏壇で手を合わせる機会が多くなる。

 

が、今回の年末年始はそれを全てやめてみた。

 

先に言っておくけど、

見えない存在や信じて行動している人たちを蔑ろにしているわけではないからね。

わたし自身、むしろ日々において見える見えないに関わらず全てへ感謝はしているよ。

 

では、そんな気持ちもあるのになぜやめてみたのかというと、

当たり前すぎて『そうするものだ』とただ思っていることに気づいたから。

 

あと、『やらないと罰が当たりそう』だと何となく怖かったから。

 

当たり前だからそうする。という思考停止に、

当たり前をやらないと何か不吉なことが起こってしまうのではないか?という囚われ。

 

それらが自分のなかにあると気づいたから、じゃぁ1回やめてみようと思った。

 

毎朝仏壇に手を合わせ、お経も読め、

節目節目で仏壇に手を合わせることを教えてきた父がいる環境で、

全てをやめてみることは少々勇気がいったが、結果から言えば何も言われなかった。

 

逆にと言えばおかしいけど、

母からはお参りが済んだかどうかを元旦の食事前に聞かれたので、

「日頃全てに感謝をしているから大丈夫。」

と言っただけで他は何も言われずに終わり、無事に全てをやらないことが完了した。

 

日本人はそこまで宗教的に縛られてはいないと思うけど、

わたしのように小さい頃から環境が濃い状態だと『当たり前』が染み込みすぎて、

そもそもを疑問に思えなくなる似たような人もいるかもね。

 

もちろん宗教的なこと以外でもたくさんあるし、それが良い悪いとかではないけど、

わたしは今回『当たり前』に気づいたので選択肢を増やすために1回やめてみた。

 

おかげで、やりたいと思ったらやればいいというだけの状態を創ることができたよ。

 

自分がやっている当たり前を変えるって実は怖い。

でもそうしたいと思って、やる!と決めたら実はけっこうへっちゃらだ。

 

2021年、令和3年。

自分をもっと楽に、自由にさせてあげられるよう自分ができることはやっていく。

恐怖があろうとなかろうと、毅然としてスッと立っておけるようにしたいんだ。

紙を1枚1枚重ねるように地味に、でも確実に。そうする。

 

みんなそれぞれにいい年を創って楽しもうね。

希望はすでに自分のなかに有るから大丈夫。

豊かな音で遊ぼう。

 

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