~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

勇気をもって "やらない"

しようと思えばできることを、やらない。

 

世間とは真逆の考え方かもしれないけど、生きていることへ罪悪感があって自分に有価値感を感じられない人ほど、この選択を優先したほうがいい時もある。と、身をもって思う時が多い。

 

自分では『やってもいいかなー』程度で動こうとしている時でも、よくよく自分と向き合えばそこにまさかの恐怖があって、それが行動の起点となっていたりするから自分でも驚く。

 

『もし、それをやらなかったとしたら自分はどんな気持ちになるか?』

 

この問いに『申し訳ない気がする』などという気持ちが湧いている時は、勇気をもってそれをやらないと決めたほうがいい。なぜならそこには必ず恐怖があるから。

 

やらないことによって自分の無価値感を強く感じたり自分を責めたりしてしまう恐怖(無力感)をこれ以上感じたくないから、無理をしてでも行動をして自分を守るという恐怖の繰り返しになっていることに、自分自身が気づいていないことが多い。

 

無意識に恐怖から身を守るため、我慢をしたり無理をしていることこそが1番の恐怖なんだけど、無意識のままでいると今できることをやらないほうがよほど恐怖だと感じて何とかそれを回避しようと逆にやってしまう。

 

でも実はこれ、『罪悪感や無価値感を自分はもっているなー』と自覚したあとも普通に続く。気づいたからといってすぐに無意識が書き換わるわけじゃないのよね。

 

そんな体験を今日はタクシーの1件でまた自覚した。

 

原付の免許しかもっていない母が家から車で10分程度の距離にある場所で用事を済ませなきゃならない時に、雨も降っているからとわたしは自分の車で送っていく準備をしていた。

 

ちなみに母はわたしに一言も「送っていってほしい。」などとは言っていなくて、何なら最初からタクシーで行くつもりだった。

 

わたしは『あの距離ぐらいだったら普通に運転していけそう』とだけ考えて行動をしていたつもりだったけど、途中で何となく心がザワザワしていることに気づいて自分へ上記の問いをしてみた。

 

『もし、それをやらなかったとしたら自分はどんな気持ちになるか?』

 

『ごめんなさいって感じだな…』

『初乗りの料金で母の時給吹っ飛ぶ…』

『父から「なんで送っていってあげなかったのか?」と遠回しで言われそう…』

 

お金のもったいなさはさておき、ごめんなさいの気持ちや怒られる恐怖をもっていると内観して気づいたことで無意識を意識的に観ることができた。

 

ちなみにここでいうごめんなさいは、『ごめんねー!』という軽い感じではなくて『本当は自分が〇〇していればいいことなのに、やらずに本当にごめんなさい。』という、まさに謝罪的なところが無価値感のわかりやすい部分だと思われる。

 

『…あらー、わたしったらまた罪悪感や無価値感やらで行動をしてしまいそうになっていたな。』

 

そう気づいたら次にすることは決まっている。

怖いけど、勇気をもって "やらない" のだ。

 

周りからみたらおかしく見えると思う。自分の美容室へは車で行けるのに、家族のことになったら運転ができないなんておかしい。甘えている。そう思われてもしょうがないけど、わたしのなかでは恐怖で動きそうになったらやめる。動かない。そう決めている。

 

母へ気持ちの顛末を簡潔に話したら、

「何も気にしなくていいよ。タクシーで行くってお父さんにも伝えてあるんだから。」

とあっけらかんとしながら言ってくれた。

 

このタクシーの件で自分の罪悪感&無価値感の堂々たる自然な出現具合と、それに気づいて "やめる" ことを即刻決めた自分の行動を観ることができた。

 

頭ではすでにわかっていても瞬間的に起きる無意識の暴走については、自分を観るスキルがもっとあがるといいなァと正直思うけれども、恐怖に気づいたあと冷静に行動を決めることが少しはできるようになってきた自分へ『やるじゃん』という気楽な声かけはしてあげたい。

 

自分が積み上げてきた無意識での生きづらさはめちゃくちゃある。

けど、あるからこそ自分を深く観て感じることができるとも今は思う。小さいことでも自分を励まして安心させていけば、何も気負わずに動きたい時に動ける時がくるって信じてる。

 

自分を信じていった先に、人をもっと信じることができるようになれたらいいな。

この命を、この世界で、存分に味わってあげたい。

 

f:id:funfunhappiness:20210811214651j:plain