最近、『有り得ない』人たちを好んで自発的に観てる。
もっぱら動画で観てるんだけど、あえて観るんだよね。
自分が感じる『有り得ない』って感覚は裏を返すと、
自分にとって『体験のない知らない』ことなだけであって、
それを実際にやってる人からすれば『普通であって当たり前』だから知れて面白い。
自分に対して『どんな状態であっても完璧で面白いよねー』って思えるようになったら、
他の人たちの状態や価値観も同じように感じられるからジャッジなく楽しく観られる。
『こういう風に生きるのが正解!こういう風に考えるのが正解!』みたいに、
何か1つの他人軸な価値観を握りしめて何にでも白黒つけてる状態の時は、
自分にとって『有り得ない』人たちを観たら、もれなく!すぐさま!批判してた。笑
だって、『有り得ない』人やことを認めてしまうと、
『自分がやってることが間違い』って正解思考だと自動的になっちゃうから、
必死で『有り得ない』=『間違ってる』ことを潰そうとするわけ。
そのおかげで、自分が他人軸で生きてた時に【大人のひきこもり】になってる、
自分にとって『有り得ない』という状態の人を全力で批判してたよ。
だって、自分は必死こいて我慢して仕事してるのに、
一方では親のすねをかじってゲームして好きな時間に寝起きして文句まで言って、
『こいつらまじで社会のゴミやな』『要らんわ』って本気で思ってた。
でも、実際に自分が大人のひきこもりという体験をした上で考えた時に、
なんでそもそも自分とは関係のない人たちに対して本気で気になったり、
本気で批判をしたりしてたかといえば、
羨ましいから。(ありかたはさておき自分も好き勝手に生きてみたい…)
だったわけなんだけど、
これを認めちゃうと人として人生が終わるっていう正解を握りしめてるもんだから、
『自分だけは絶対にああなっちゃいけない!』って、もっともっと必死になるわけ。
だから自分の限界には何となく気づいてるのに、
正解という枠から出ちゃいけない!ってもっと苦しくなって、
もっと自分本来の自由な意識からも遠ざかって、人はいても孤独になっていくんだよね。
ちょっと話が逸れちゃったけど、
人それぞれ自分に合った過程を経て自分と向き合っていくと、
白黒つけるようなカテゴリー分けは自然となくなっていくんだなーって思ったりする。
自分との相性って意味での合う合わないはもちろんあるだろうけど、
『有るものは有るんだ』ってことを受け入れるたびに自分が豊かになれる。
『ない』って先に決めつけて可能性を潰さないってことは、
自分の可能性を広げることにも繋がるし、自分の枠から勝手に出て選択肢も増える。
なので、
『有り得ない』って最初に感じた時はチャンスだと思って喜んで受け入れてみてる。
そこで、自分にとって使えるようなヒントだったり意見だったら使えばいいし、
そうじゃなければ使わなきゃいい、流せばいいだけの話だから、
まずは自分にとっての『有り得ない』を認めて受け入れる。
そして、その『有り得なかった』視点をどう扱うかは自分がどう感じるかで決める。
偉い人が言ってるから~とか、専門家が言ってるから~とかで決めるんじゃなくて、
自分が聞いていて心地がいいものを自分で選んで決めることがいいと思う。
それだけで、自分のことを信頼することにも繋がってくるしね。
今のわたしも誰かにとったら『有り得ない』人だと思う。笑
でも今だったらわかる。
『有り得ない』って思わせてくれる対象がいるってことは、
自分の自由度をあげてくれる人にもなり得るから本当はとても貴重な存在だってこと。
自信をもって『有り得ない』を提供しよう。自分のために。全てのために。