~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

観ている世界が違う

雨と冷え込みが来る前の昨日、今年はじめての火遊びを執り行った。(庭でたき火)

 

ナタを振るって枝を切っては炉にくべる。

そんな屈伸運動のせいか昨日は腰が、今日は太ももが重いけれど楽しかったので良し。

少しは庭も片付いたしね。

 

重い身体を休めつつ、今日は久しぶりに仕事休みの母と一緒に話をしていた。

 

話題は例の風邪。

スマホやパソコンをもっていない母へ可能性と選択肢を渡すために、

定期的に話をしている。

 

ちなみに父とは風邪の話はしていない。

 

以前は話をしていたし、父自身も他の可能性はあるとわかっているみたいだけど、

「見えている情報(主にメディアから与えられる情報)の中で判断する。」

と1度断言されたので、これ以上は自由への侵害になると思ってやめた。

 

正解は誰かから渡されるものじゃなくて自分で決めるものだと思っているけど、

人間、自分の興味のあることしか聞きたくないのが本音だろう。

 

だから、母にも都度言っている。

「聞きたくないと思ったらいつでも言って。話さないから。」

とまァなんともドライな感じだけど、相手が大切だからこそ無理強いはしない。

 

母はといえば、

「言われないとわからないこともあるから。」

と、話を聞きながら要所要所で質問もしてくる。

 

「わたしが話すことが正解ではないけど、何かしらの疑問をもつきっかけになれば。」

 

そうやって今日も風邪の話をした。

もちろん、緊急だの怖いだのマスクだのという一貫して与えられる話と同じではない。

 

結果、父がつけたテレビで夜のニュースがはじまった時に面白いことが起こる。

 

箱のなかでは神妙な面持ちのアナウンサーが風邪の過去最多と緊急事態を深刻に伝え、

マスクをした子どもが「マスクをつけることを頑張りたい。」と決意を述べている。

 

夕飯が始まるなか、そんなテレビのBGMだけを聞きつつ母の顔をチラリと見た。

 

笑っている。

 

というより、ニヤニヤしている。

かくいうわたしもニヤニヤしている。

 

可能性や選択肢を知ったうえで現状を俯瞰して観ることができると、

疑問点が多すぎてまともに観ていられないのだ。

 

先に言っておくけど、何が正しいとか間違いだとかそういう話をしたわけじゃない。

 

『おかしい』と感じたことを「おかしい。」と言うのは1つの意見であるのに、

その意見さえ言えなくなることが起これば、それはますます『おかしい』わけだ。

 

どこかの国では「○○陛下万歳!!」とほとんどの国民が言う時代があったけど、

それを言わない人は非国民扱いをされ、国のために死ねない人はひどい扱いを受けた。

 

今の時代で言えばそれが「マスク万歳!」かもしれないし、

「わ9ちん万歳!」かもしれない。でも、それが絶対的に正しいなんてことはない。

 

と、疑問に思いながら今の世界を観るのと、

「万歳!!」と言いながら疑うことなく観る世界では感じ方が違うのは当たり前だ。

 

感じ方が違う。

これが、観ている世界が違うということだと思う。

 

与えられた情報から一歩引いてみれば、そこにどっぷりと浸らずに、

『そういう意見もありますね。』

というだけで済む。

 

どちらが良いとか悪いとか、正解とか間違いとかいう話ではなく、

自分の感覚、自分の意見、自分の表現を無くさないように自分で考えるという話。

 

そのためにも、常に真剣ではあるけど深刻にはならない。

 

母がニヤニヤしながらもワ9チンを打つと決めれば、それは尊重すべき自由なだけだ。

 

大切なのは、自分が知らない可能性をきちんと知る権利を余すことなく使って、

さまざまな選択肢を増やしてから自分で決めること。

 

こんなことを言える時代がいつまで続くのか知らないけど、笑

わたしは『こんなこと』を当たり前に言える世界が続いてほしい。

5年後も100年後もそうであってほしいから、今もニヤニヤしながらそうしている。

 

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