「じゃぁ、どうしたらいいかな?」
「あなたは、どうしたいですか?」
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わたしたちは、まんまと考えなくなった。
考えないというよりは、感覚を失った。
自分という優れた感覚を使う術は教えられず、
誰かが決めたルールに従うよう教えられた。
これは楽でいい。
自分で決めなくていいのだから失敗がない。
もしそれで失敗をしたなら、
ルールを決めたその"誰か"のせいにすればいい。
『あなたの言う通りにしたのに失敗した。どうしてくれる。』
楽だ。
一瞬は。
でも、
その"誰か"に囚われた人生がその瞬間からはじまったことには氣づかない。
そういう人は話を聞いたあとも大抵は同じことを聞いてくる。
「なるほど。では、わたし(たち)はどうすればいいですかね?」
信頼できる権威ある誰かから与えられた手段を、与えられた通りにこなすことが、
"考えて動く"ことだと信じて真剣に誰かの正解を聞く。
誰かの号令で動き、失敗も間違いもない右向け右で流れる世界は全てが誰かの想定内。
自分だけの考えや感覚をもち、誰かが決めた社会平和を乱す反乱分子は誰かの想定外。
誰かに決めてもらう。
ということを、
自分が決めている。
そのことに氣がついていない。
だから、
"誰か"は何を言われてもこう言うだけだ。
『わたしのせい?何をおっしゃる。
最終的にはあなたがそうすると自分で"決めた"のでしょう。自己責任ですよ。』
誰かが正解をもっていて、
誰かが自分を導いてくれ、
誰かが自分を救ってくれると本氣で縋っても、
最後に決めるのは自分しかいない。
自分だけの感覚を信じると決めるか。
それとも誰かの感覚を信じると決めるか。
そこには正解も不正解もなく、そのカラクリがあるだけ。
A「わたしはどうしたらいい?」
B「わたしはどうしたい?」
自分の人生がはじまりそうな質問はどちらに感じる?
自分だけの感覚、忘れないでね。