18時40分。
皿を洗っているとコンコンコン。
孫の携帯へ電話をしたのに出ないため、祖母が勝手口からコンニチハ。
「馬鈴薯は要らんね?」
「お母さんに、今日の夕飯は要らないって言っといて。」
話の要点はこの2点だけなのだが、
馬鈴薯の入手経緯から始まってサイズの話までを2度ほど繰り返し、
自分が作ったカレーと嫁が作ったカレーがダブった話を挟んで、
夕飯が要らない旨を5度ほど繰り返した頃には15分ほど時が進んでいるから不思議だ。
馬鈴薯の件は、母に確認してから再度電話で連絡をすること。
夕飯の件は、母の携帯に連絡をしておくので大丈夫だということ。
長年がんばってきて歪んだ背中をヨイショと動かしながら勝手口から祖母が退場。
「(勝手口の)鍵はこちら(内側)から掛けるから大丈夫だよ。」
と背中を見送り、泡つきで待機していた皿を洗うこと3分。
電話が鳴る。
心のどこかで『もしや?』とは思いながら急いで泡を落として受話器をとる。
「はい。」
「ええ。ユキさんね。今日の夕飯は要らないってお母さんに言っといて。」
「お母さんにはもう連絡をしておいたから大丈夫だよ。」
「ええ。じゃぁお母さんに言っといてね。よろしくね。」
会話のなかで同じ話をすることや記憶の掛け違いはこれまでも多々あったが、
この短時間に忘れ、更に電話でのダメ押しは初めてだった。
3つ重なっていた法事が無事に済むまでは気を張っていたのかもしれない。
一緒に買い物へ行った1週間前も見当識障害の気配があって、
スーパー内でレジの位置がわからなくなったり、
来た道を帰る時もどちらの道を行くのかわからなくなったりしていた。
このような変化は逐一、両親へ伝えて連携を図るようにしている。
距離が近いからこそできることがあると知っている反面、
距離が近いからこそ切ないようなもどかしい氣持ちになってしまう面もたくさんある。
これはどうしたってしょうがないことだと過去の経験からも知っているが、
変化の早さを受け入れるのにはなかなかどうしてこちらのほうが時の進みが遅い。
執着という名の期待やコントロールなどは隅に置いて、
1つ1つ受け入れ、眺めながら、瞬間瞬間の祖母の生き様を見させてもらおうと思う。
そうだ。
馬鈴薯は足りているから大丈夫の旨を祖母に連絡しておかなきゃね。
3度目の正直で次は電話に出てくれるかな。
ダメだったら直接伝えにいこう。そうしよう。