~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

決める自由

先日の記事で何とも芸術的な自転車の絵を披露したところだが、

昨晩から今日にかけてさらに深く考えるきっかけがあり、

これは、改めて全ての事柄について等しく同じだなと気づいた。

 

『自分が当たり前にもっている価値観を1度しっかり認識(俯瞰)し、

 その上で自分がどのように考えて動くのかを決める。』

 

 

これは宗教的なことでも全く一緒だと思ったんだよね。

 

生まれながらにして、

 

『ミルクを飲みながら木魚のビートを全身で味わうのが快感☆』

『子守歌はピエ・イエスじゃないと眠れないの♡』

『母は1人っ!!!神も1人っ!!!』

 

みたいなね、

濃い赤ちゃんはおらんと思うのです。笑

 

生きていく間に誰かから何かから、

 

・これは大切にするべきことや物なのです。

・こうすることで人は救われます。供養になります。

 

という具合で与えられた考え方がベースとなって、

それが日常的に自分の "当たり前" として生活の1部になっていくと思う。

 

道ばたのお地蔵さんを見て、

何も知らない子供はツルツルの可愛い頭をぺちぺち叩いてみるかもしれない。

赤い前掛けをめくってみたり、どんな重さか持ち上げてみようとするかもしれない。

 

その光景をみて大人(親)は何というだろうか?

 

「そのまま蹴り倒してごらん。」

「どれどれ、お父さんが持ち上げてみせよう。」

 

などという大人(親)はかなり少ないと思われる。日本人ならね。笑

 

なぜなら今まで生きてきた間に、

"大切にする対象" だと教わる機会が少なからずどこかであったからだ。

 

詳しい理由や経緯はわからないが、

『なんとなくそう思う。』

『そうしたほうがいいと感じる。』

というような考え方が自分の中にあることを意識的に "見る" ということは、

 

『働かざる者食うべからず。』

『自分のことより人のことを先に考えて積極的に動くことが大切だ。』

(過去にわたしが信じ切っていたこと。笑)

のような、

 

無意識に自分が思考して行動していることを意識的に見る場面と、

何ら変わらない同じライン上の話だと思うのね。

 

わたしが小さい頃は身内に住職がいて、

親戚の集まりがある時は寺でよく遊んでいたし、

祖父もお坊さんの名前をもっていたからか説法のような話も日常的によく聞き、

祖父母の家に行くとまず正座をして挨拶をしてから仏壇に手を合わせに行っていた。

 

この体験自体に良いも悪いもない。

 

ただ、これらの生活体験があまりに日常のことで今まで考えたことがなかったけれど、

よくよく考えてみれば、

別に自分が編み出した考え方でも作法でも何でもないのね。当たり前だけど。笑

 

だから意味がないとかおかしい。って話じゃなく、

1度しっかり、

 

『あ~、なんとなくこうしたほうがいいと感じていたけれど、

 これは誰かから何かから教えてもらって得た考え方だね。なるほど。』

 

と、意識的に自分の考え方を俯瞰できると選択肢が増えるんだよね。

 

『そうしなきゃいけないような気がする』から行動していたことも、

『別にそうしなきゃいけないことは何もないけれど、

 自分がそうしたい(気持ちがすっきりする、落ち着く)』から行動する。

 

という『決める自由』を自分へプレゼントできるのはでかいかなって。

 

…いつものごとく長くなってきたからそろそろまとめるけれど、笑

 

自分で考えて行動していると思っていることも、

実は誰かの考え方を元に行動をしているほうが圧倒的に多いということ。

 

それは誰しも最初は無意識だが、それに気づき自分で選ぶこともできる。

これはどんなシチュエーションでも同じなので、何にでも使える。

 

宗教的なことって自分の生き方と深く結びついている人も多いと思う。

 

なのでこういう話をすると、

生き方や考え方を否定されたような気持ちになる人もいるかもしれない。

 

けれど、何も否定はしていないし、

わたしの外側を何も変えようとはしていないからね。

そこは理解してもらえると嬉しいな。

 

わたしの中にあった "なんとなく当たり前" の話でした。 またね~。

 

 

おまけ▼

 

去年、自分で引いたお神籤と、

今年、父が買ってきた2つの内から選んだお神籤。

 

内容が一言一句すべて同じという結果でネタが増えました。笑

この確立すごいよね。

 

2年連続、恋愛運の【今はまだ駄目です】の言い方が好き。

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