~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

感情と出来事の評価はセットじゃなくてもいい

イヤな感情が湧き上がると、その原因であるはずの問題(出来事)の胸ぐらを掴んで『これさえなければ!』『この人さえ変われば!』『自分さえこうであれば!』などと色々なセリフを唱えながら、問題に詰め寄って問題を叩きのめしたくなる思考が今でもちゃんと存在してる。

 

でも、その思考のまま動いても安心したり解決したりしたことはこれまでに何ひとつなかったから、問題の視点に気づいたら解決の視点へと早い段階で切り替えるように今はしてる。

 

問題を問題として取り扱っている限りは、その問題が起こらないように自分が立ち回ることしかできなくなって、結果、問題の数だけ自分の自由が制限されていく。どこまでいっても問題が起こらないようにコントロールをしなければならず、本当はコントロールしてまでも欲しかった安心からはますます遠ざかる。

 

出来事によってイヤな気分になることもあるし、イイ気分になることもある。

それは素直な反応で、そこで出た感情をきちんと味わうことが自分を安心させ表現していくためにもまずは大事だと思う。

 

では、イヤな気分になったからその出来事がダメなことだったか?イイ気分になったからその出来事は最高なことだったか?

 

出来事自体に本当は良いも悪いもなく、ただの豊かさである。と観れた瞬間に、さっきまで叩きのめそうと思って強く掴んでいたはずの問題が消えてしまう。

 

豊かさというとこれまた頭は『イイモノ』として処理しようとするけど、そうじゃない。

 

ピアノの鍵盤のドとファではどちらがイイモノですか?

色鉛筆のオレンジと緑ではどちらがイイモノですか?

てんとう虫と蝶々はどちらがイイモノですか?

 

好き嫌いはあっても、『在る』そのものにイイモノもワルイモノない。全てがあるから多彩な音楽が作れるし、全てがあるから多彩なアートや生態系がうまれるだけ。在るだけ。という観方をした途端、もうそれは豊かでしかなくなって解決の視点そのものだ。

 

感情と出来事の評価はセットじゃなくてもいい。

 

起こったこと(あったこと)の全ては1つの豊かさだし1つの体験だし1つの素材なだけだと、起きたことを冷静に観てしまったが最後、残念ながらもう問題を本気では遊べない。

 

『問題だ!問題だ!』と頭がとち狂ったようにガチャガチャしていたあの瞬間が愛おしくて、感情で遊んでいたあの瞬間が恋しくなるなんて有り得ないと思う人もいるはず。なんて言ったって、問題で遊んでいる渦中のわたしもそんな風には思えないから。

 

でも解決の視点へ移動し、全てがただ在るだけだと観てしまったら否応がなく問題だと思っていた全てを豊かさとして扱いはじめ、静かな安心のなかにいることになる。

 

問題だと感じたこと、イヤだと感じたこと、イイと感じたこと、それらが全て幻想だったのかとさえ思えてしまうほどの真の安心感は、本当は自分たち1人ひとりの内側にすでにある。

 

だからこそ内側の静けさに気づいていないときは、まだ問題を問題として楽しんでおきたい時なんだとも思う。問題=ワルイモノ イヤな感情=ワルイモノ そのルールがなくなってしまったら真剣に遊べなくなるから。

 

『問題だー!』『最悪だー!』『最低だー!』

『ん?これは本当に問題なんだろうか?』

『うわぁ…全部豊かさでしかないじゃん…。』

 

そんな2つの視点を使いながら、どちらの豊かさも存分に味わっていくコースをわたしは選んで遊んでいるんだと思ってる。

 

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