~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

『面倒くせー』そのものと向き合ったら

自分がしたいことをスタートさせるときでも『面倒くせー』は構わず出現する。

 

今日は溜まった皿を洗ってシンクをスッキリさせたかった。

でも案の定はじめる前に『面倒くせー』がやっぱり出てきた。

欲しい結果はある。けど、面倒くさいものはやっぱり面倒くさい!

 

ちょっと前だったら、

『まァ面倒だけど過程を楽しもう。やってるうちにやる気もでるはず。』

って感じでふわ~っとスタートをして欲しい結果も問題なく得られていた。

 

けど、ここ最近の自分はちょいとそれじゃ満足できなくて、どうやったらこの初手にくる面倒くささを上手く扱えるのか?が気になってた。

面倒くさいをなあなあにしない方法ってないかなー?とかそんなことばかり思って過ごしているもんだから、皿洗い計画で出たせっかくの『面倒くせー』はラッキーチャンス。

 

とは言うものの使い方なんてさっぱりわからないまま『でも面倒くさいものはやっぱり面倒くさいしー。』なんて結局どこにも行きつかずにふらふらしてるとき、はたと気づいた。

 

『あれ?面倒くさいと思ってるってことは面倒くさいと感じてるってことか。これって感情と一緒じゃん?』

 

言葉にするとややこしいんだけど、怒ってるとか悲しんでるとか喜んでるとかと同じで、今そう感じているなら『面倒くさい』という感覚も思う存分感じて味わったらよくないか?って思ったんだよね。

 

そしたらその瞬間、視点が変わって『面倒くさい』と感じている現実そのものを飲み込むことに成功した。

 

現実を飲み込むっていうのは『面倒くさいけど目の前のことを頑張ってみよう!』と思えたって意味ではなくて、この瞬間に起こっている『面倒くさがっている自分と今そこにある全てを感じることにOK』が出せている状態になれたってこと。

 

面倒くさいに支配されている状態ではなくて面倒くさいを自分で扱えている状態になれた。

 

身近な感情で例えるともっとわかりやすかな。

怒りを感じたときに怒りだけを軸に動くんじゃなくて、怒りを抱えている自分を感じて把握した状態で動くのと同じ感じ。そのときは怒りを感じた自分を俯瞰してるので怒りに直接は支配されていないよね。だから深い安心感がそこにはある。

 

『面倒くせー』もそれと同じで、『面倒くせー』を意識的に感じようとした瞬間に俯瞰した視点になって安心感をもつことができるから、無理やり自分を奮い立たせなくても自然と動けちゃう。

 

その結果、皿を洗いながら「あー、面倒くせーw」って口では言いながらも面倒くさいと思っている自分を微笑ましく観て楽しんでいる状態だったよ。これは大きな意識からの視点とも合致した。

 

結局【皿を洗った】という見えている結果は今までと全く同じなんだけど、どんな意識の状態で事をスタートをするかによってこんなに現実の見え方とか感じ方が違うのかって今日もまたいい勉強になった。

 

『面倒くせー』と感じる出来事ではなくて、『面倒くせー』そのものと向き合ったら『面倒くせー』も生きてるからこその大事な感覚なんだなーって愛おしくなれた。

 

いつの間にか面倒くささに巻き込まれる日常も面白い体験だけど、面倒くささすらも自分で意識的に巻き込んでいける面白さをもっと体験していきたいと思ったよ。

 

こういう感覚を言葉にして記録するって難しいし、めっちゃ面倒くせーーー!!w

なんて思いながらも毎瞬の1コマ1コマをますます噛み締めていく今日この頃でした。

 

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