前向きな気持ち、後ろ向きな気持ち。どっちも大事だから、どっちも書く。
ただ少々、いや大分、わたしの場合は極端だ。
昨日は、ここ最近で1番死にたくなった。
環境の変化によるストレスも大きいだろうけど、とどめは葬式帰りで実家に寄った姉との会話。
考え方の違いが豊かさだとわかってはいても、コントロールを感じる言い方をされると自分のなかにある深い恐怖が不安をさらに大きくする。
注射も2回終わった姉のこと。流行りの風邪については何も話すまいと思っていたけど、そうもいかないシーンになり『あなたはそう考えるのね。でも、わたしはこう考えます。』で、お終いにしようとしたが案の定こじれた。
『ユキコは大切な家族や他の人たちのことがどうなってもいいのね?』
『マ㋜クや注射をせずに普通に出歩いている人たちは、言葉は悪いけど殺人犯と同じだと思う。(但し、ひきこもりの人は別らしい。いやいや、わたしだってたまには外に出ますから…)』とかさ。
("今は"人と接触が少ない)ユキコは別だと言いながら、実際はわたしの行動を制限してくる言葉たちの数々にコントロールを感じてげんなり。(姉の現実では色々と心配していることが起こっているようだから恐怖せざるを得ないのもわかるけどね)
そしてその後は、自分のなかにある深い恐怖感からの要らない孤独感が増してくる。
死にたくなる時はいつだってこの孤独感がある。本当は孤独じゃないとどこかでは知ってるのに、簡単に圧倒される。特に身内とのあーだこーだには余計にくる。
出来事は出来事であっていい。
でも、その出来事の度に自分が手に負えない。
自分が意図しないところで起こるこのちぐはぐさを脱ぎ捨ててしまいたい。
そんな気持ちが止まらなくなるからこそ『死』が紛い物の希望になってしまう。
昨日の晩、泣いて、泣いて、泣き散らかしたおかげで今日は片目の腫れがとれないや。
自分が生きたいと思う現実に自分のことから変えていく。少しでも近づけたい。けど、なかなかそうなっていかない。
色々なもどかしさが募るけど、まだ諦めないって今朝は小さくだけどそう思えた。
昨日あれだけ死にたかった人が今日は覚束ない足取りでも生きるための行動をしてる。
こんな切り替えは以前なら無理だったと思う。どこかで諦めたい自分もいるのに諦めたくない自分もいて、何とも不思議で滑稽だ。
この人生をもっと愛する。
そうわざわざ意図しなきゃ自分を生き抜けない人も居る。そんな不器用な体験も豊かさに変えて、今日も生きる。
空っぽの冷蔵庫みたく重い頭も空っぽにして、買い物へ行ってこよう。