~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

この瞬間をこの瞬間だけのものとして慈しむ

『この瞬間を感じたくて見たくてここに来たんだろうなァ。』

 

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洗い物をやっている時にホットコーヒーがどうしても飲みたくなって、

鍋とコップ、それに母が使っているガラスの容れ物を残して水が飛び散ったシンクを拭き上げ、いそいそと自分のマグカップにコーヒーを淹れた。

 

きっと昔の自分だったらコーヒーが飲みたい衝動より洗い物を優先しているはずだ。

『やり始めたことが終わったなら休んでいい。やることをやってから休むべきだ。』

な~んて、言葉にもできないほどそれらを無意識に握りしめてコーヒーはお預け。

 

今は残りの洗い物よりなによりコーヒーを飲みたい自分を放っておくほうが気になる。

人間、時間はかかるが変われるもんだ。

 

リビングというカタカナの空間にどどんと鎮座する四角いちゃぶ台に、

コーヒーと自分を置いてさっきまで立っていた台所を眺める。

 

夕方になって薄暗さはあるものの、

目に入ってきた洗われていない鍋からズームアウトして台所を見ているとフと思った。

 

『この瞬間を感じたくて見たくてここに来たんだろうなァ。』

 

そう思った瞬間に、

別にこの瞬間まで特別でも何でもなかった家の中の風景に感動をして涙が出はじめた。

 

見慣れた母の机も父の少しゴチャゴチャした棚も、電話台もさっき取り込んだ布団も。

居るのか居ないのかわからないぐらい静かに古いPCケースの上で鎮座する愛猫も。

もちろん汚れたままのあの鍋も。

 

それらが映り込んでいる全ての場面が尊く感じたのだ。

 

まるでもうすぐ死んでしまう人かのように、

1枚1枚ぜんぶ写真に撮っておきたいほど家の各所のシーンが嬉しいわけだが、

実はこういう体験は初めてではない。

 

今ここにこうして存在して今しか体験できないシーンの真っ只中を自分が生きている。

 

映画やドラマ、舞台はほとんど見ないわたしだが、

この瞬間をこの瞬間だけのものとして慈しむ。

そんな風に自分の世界を捉えられることが普通に嬉しい。

 

そんなことを思っていたら全ての物や人が舞台の小道具や出演者に見えてきた。

 

自分のために用意された。なんていうと何とおこがましいことかと怒られそうだが、

逆を返せばわたしも誰かの舞台の出演者であり、わたしが持っている物も舞台の小道具の1つに過ぎないのだが、それがまた他人の舞台に良い味を出しているだとしたら面白いではないか。

 

などと舞台上でひとり盛り上がっていたら小道具のコーヒーを忘れそうになっていた。

 

温かい湯気を鼻で吸い込んでからひとくち飲むとまた嬉しくて涙が出た。

このあと出かける予定があるのでコーヒーを飲み終わったら鍋を綺麗にしようと思う。

(鍋さんに業務連絡。

 まったりと落書きをしていたら時間がなくなったので帰ってきてから洗います。

 たぶん。)

 

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