だから、うちの愛猫は出会った時から自信満々だったのだ…と氣づく。
あれは愛猫と初めて会った時、
さっきまで大絶叫で死にそうな声を出していたくせに、
会った途端に猫撫で声を出してお腹を見せながら目の前で転がりまくっていた。
『何なんだ・・・この無警戒過ぎる仔は・・・。』
記憶している"野良猫像"に当てはまらない目の前の生き物に困惑している間に、
その生き物はしゃがんだわたしの膝にぴょんと飛び乗りいそいそと體を丸めて寝始めた。
『おいおいおいおい・・・。こんな無防備さ、こりゃ絶対に飼い主がいるな・・・。』
なんていう期待した心配も獣医師からの、
ご飯はもらってないね。飼い主はいないよ。どうするの?」
という切り捨て御免発言で杞憂に終わった。
まぁ確かに、體は軽すぎだしノミは繁殖し放題。耳ダニこそいなかったが、頷けた。
愛猫は初めて会った人間を、ただ信頼したのだ。
人間という生き物を、
危害を加える対象としてではなく、裏切る対象としてでもなく、
自分を愛してくれる対象だと信じたのだ。
そう、愛猫は自分のことを愛(される存在)だと知っていたから。
『愛させてあげる』って、堂々とね。
わたしが自分にも他人にも出来なかったことを容易くやって見せ、
"愛し方"を生き方で教えてくれていた。
もう、10年も前からずっとだった。
愛させてあげている人、いる?
『わたしのことなんか誰も愛してくれていないし、必要となんかされていない。』
そう思う人がいるなら、うちの愛猫を一緒に見習おう。
シャー!っと言いながら威嚇をして逃げることも面白い体験だけど、
世の中が敵ばかりだと身構えているのはやっぱり疲れちゃうよね。
『こんなわたしだからこそ、愛したいと思う人もいる。』
と思ってみるのはどうだろう。
うちの愛猫みたく"ハジメマシテ!"で相手にお腹をジャン!と見せる必要はないけど、
『愛したいのなら愛していいよ。』
と自分を愛したい人には、ちゃんと愛させてあげるのはどうだろうか。
わたしはそうやってみようと思ったんだ。
なぜならそれが、
愛を受け取ることのみならず与えることにもなると氣づいたから。
愛の師匠には頭が上がらないので、ここぞとばかりに撫でておきました。
指先ではのどがゴロゴロ、外では雷がゴロゴロ、あっちもこっちもゴロゴロ祭り。
賑やかな夏の夕暮れ。