「奇跡って簡単に起こるから怖いねェ。いや、すごいね。」
目を合わせながらも数秒に1度は瞬きを挟み、愛猫へと話しかける。
反応は、聞こえそうで聞こえないのどからのゴロゴロ音。
奇跡の音、そのものだ。
生まれた奇跡なんていうのはどうも表面的な言葉に聞こえてしまう。
記憶にない奇跡を想像し、噛みしめて喜ぶことも尊く面白くはあるが、
それよりも生まれたあとの計り知れない奇跡のほうが腑に落ちやすくわかりやすい。
少なくともわたしにとっては。
なんだかんだと言いながらも生き続けている自分の命そのものの奇跡に加え、
会う人、会う動物、会う景色、そのどれをとっても正直、有り得ない確率で会う。
節目という名の出会いや体験を数多く通過してきた人ほど、
信じられない奇跡というタイミングはいとも簡単に起こることを知っている。
それは今この瞬間も起こり続けているのだが、
どうしても人というのはサプライズ的なことがないと氣づかないし、氣づけない。
現在進行形で起こっている奇跡は素通りして、
降って湧いたようなことだけが奇跡だと錯覚してしまう。
本当は奇跡の先に奇跡が起こっただけ。
『あの時、自分がそこに居なければ起こっていなかった。』
あの時というその瞬間まで自分の命がなぜか続いていて、
なぜかその場所を選び、なぜかその時間を選んで、なぜかそれをすることを選んだ。
有り得ないほどの奇跡の選択をしていた。という奇跡が既にあって、
その1つ先に起こった奇跡がひどく特別なものとしてただ見えているだけだ。
そうやってずっと奇跡だったのだから、
これからもずっと奇跡は起こり続ける。
自分という命の音を鳴らし続けるからこそ、
全ての奇跡の音と共鳴して、さらなる奇跡を簡単に起こしていくのだ。
既に死んだ星が光を発するように、音は時空を越えて広がり続ける。
生まれてくることだけでも奇跡なら、死ぬ奇跡はどれだけの奇跡の賜物か。
奇跡。
あなたがこの記事をなぜか選んで読んでいるのも奇跡。
奇跡が起こるたびに命の音は柔軟に変化をし拡大をし続ける。
わたしの音を拾ってくれてありがとう。