「君は何を分解しながら生まれたの?」
そんなことを蝿に聞く人間もそうそういないだろうが、残念ながらここにはいる。
きっと夜には見つかってころされてしまう予定の蝿を、
愛猫と一緒に眺めながら問いかける。
「蝿さん、外に出してあげるから手に乗りなよ。」
目から羽から體の手入れに忙しい蝿に"さん"を付けて誘ってみると、
手のひらにジャンプをするかのごとく見事に飛んで着地を決めてくるものだから、
『話の分かるやつだな』
なんて思い上がって動いた瞬間、案の定どこかへ飛んでいった。
窓の前でしばし待機して、
いつでも蝿さんが脱出できるようにしたがそのタイミングはやってこなかった。
別に、いつも虫とこんな珍妙な馴れ合いをしているわけではない。
蝿さんの前に侵入してきた蚊へは何の猶予も与えなかった。
それでも、こちらの都合で命を奪った時は、
「ごめんね。」
と言うのが自分流の供養。
そのわりには思いっきり叩くことをやめないのだからなんとも言えない。
お玉杓子が蛙になり、幼虫が蝶やら甲虫になるのと同じく、
ボウフラが蚊になり、蛆は蝿になる。
当たり前だが、命には過程がある。
急に蛙の声が聞こえて、急に蚊に刺され、急に蝿が五月蠅いと感じても、
自然に"急"はない。
目の前の命がどこから、どのようにして命を繋げてきたのか。
そんなことを考えている暇があったら手やら蝿叩きで一撃を食らわせるほうが先。
自分だってわりかしそんな時ばかりだが、
命の過程を知っているか知らないかではきっと自然との繋がり方や接し方は違う。
突如出現するただの害虫なのか、
全てにおいて必要なバランスを保ってきた命なのか。
そのバランスのなかに人間の命がある感覚で生きるのか生きないのか。
自然と隔離された環境のなかでは、
命を命として見ずに生きることが普通になってしまうのではないかと思う。
それはもちろん、虫だけの世界に限ったことではなくなるが。
土が見えない舗装された道路、綺麗に植えられ、拵えられた樹や花や芝生。
その自然は人工的に作られた "不自然" だと言ったら都会の人は怒るかな。
でも、それにさえ氣づかない、氣づけなくなっている人たちは多い。
天然の自然はもちろん美しいが、
その美しさを発する命の在り方には敬意と畏怖を感じる。
人工的に植樹され、人の手で丁寧に守られて育った樹と、
川辺に根を張って次の瞬間には流されるかもしれない覚悟と共存のなかで生きる樹では、発している音や氣配が全く違う。
その違いがあるからこそ、
人は雄大な自然を目の前にすると素直に圧倒され感動できる。
蝿から話がだいぶ壮大になったが、
話していることは同じ自然の営みであって全ては繋がっている。
【自然】という単語や意味を知ることはできても、
命が命として存在をし、人間を含めて共存関係にあるという【自然】を知ることは、
実際の自然のなかでの体験なくしては知り得ない。
今夜、死ぬかもしれない蝿さんの命から次の命に伝えられることは書いたつもり。
さっき母に聞いたら、まだ蝿は見かけていないとのことで逃げ切っているようだった。
命を育んだ自然という愛の深さを知ると、その命に興味がわく。
巡り巡って、
自分の命にも興味がわく。
蝿さん、教えてくれてありがとうね。
明日また会えるなら、今度こそは手にのって外へ出るんだよ。いいね。