~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

表現の自由がなくなるって、変化を許さないことだと思うのね。

『入店の際はマスクの着用とアルコール消毒のご協力を… レジでは距離を空けて…』

 

店の入り口で猛々しく音割れをしながら繰り返し流される自動音声の横を通り過ぎ、

マスクをせず、アルコール消毒も無視をして店内に侵入する2人組がいる。

 

わたしと、わたしのばーちゃんだ。

 

ここでわたしたちの行動にイラッとして、

意見ではなく文句が言いたくなった人はページを閉じてほしい。

 

わたしは誰かと喧嘩をしたいわけじゃないし、

きちんと言われたとおりに協力をしている人たちはそれでいいと思っている。

無論、わたしの行動が正解だとか言うつもりもない。

 

でももし2人組にイラッとできた人がいたら、

『自分が思う価値観こそが絶対に正しく、他は間違っている!』と、

答えが1つしかなくなっていることだけは認識をしておいたほうがいいと思う。

 

それは、自分を知るチャンスに繋がるから。

 

とまァ、これぐらい前置きをしないといけないのは、

この時代を生きている人たちになら説明をしなくても伝わるだろう。

 

主体的に考えた末、実際に行動をしてみる。

 

とてもシンプルであり自由を選択肢として残すには当たり前の行動も、

見えない圧でやめざるを得ないような雰囲気が日本を、世界中を、覆っている。

 

自分なりに色々と情報を集めて考えたり、世界の『今』を多角的に観て、

今のわたしが感じて決めたことがあるならばそれを表現するのはその人の自由だ。

 

でもその表現が、誰かにとって侵害されたくない何かであるなら、

侵害されたくない側はきちんと話をすべき。

 

いいから従え。

決まっているのだからやれ。

みんながそうしているのだからそうしろ。

 

そんな他人軸ありきの話し合いなどではなくて、お互いの主張をしっかり言うのだ。

 

何を見てそう思い、だからこう考え、それでこのように行動をし、主張をしていると。

自分の考えとは違う人に疑問をもてた時は、

批判や指示でねじ伏せるのではなく、まずは意見を聞いてみるのはどうだろうか。

 

そんな冷静さが保てず、自分の正義感だけで人格を否定するような言葉を放つのは、

この世界にとってとてももったいないことだと思う。

 

わたしが意図的にマスクをせずに店へ入り、

あのウィルスに弱いとされている高齢者にすらマスクをさせず、店内をうろつく。

これに意見があるならば、いつでも相手の主張は聞くつもりだった。

 

仮に店側の人から、

『マスクをしないなら買い物はさせない!』と言われても、

内容はともかく相手がそう主張するという自由は奪われてはいけないと思う。

 

もちろんこちらはこちらで主張をして、お互いが納得する着地点を見つけるだけ。

夫婦関係などの人間関係でもきっと一緒ね。

 

ばーちゃんの歩みに合わせ、のんびりと買い物をすること1時間。

そのあいだにマスクをしていない人を見たが、60代ぐらいの女性ひとりだけ。

 

見逃しもあるだろうが、べらぼうにでかいスーパーでもないのである程度は見渡せる。

ざっと思い返しても100人ぐらいは常に店内にいる状況だったと思う。

そこから見ても、スタッフや入店する人たちは99%マスクをつけていた感じだ。

 

でもね、不思議なことに誰も『マスクをしてください』とは言いには来ないんだよ。

 

自動音声ではあれだけ堂々とお願いをするのに、

自分たちはマスクをしているのに、

誰も何も言ってこない。

 

これだけみんなで言われたことをしっかりと守っている状況なのに変じゃない?

 

わたしたちが感染していたら怖いから近づかないのかな?

でもそれなら、余計に店員さんはわたしたちを追い出さなきゃならないね。

 

マスクをすることも自由、マスクをしないことも自由。

だから別に言わないというなら本当に素晴らしい自由であると思うよ。

 

でも、言わない理由はそうじゃないよね。

 

『こんなに感染者が増えているのに、なぜマスクをしないんだ…!』

 

『マスクはしたくないけれど、しなさいって言われているからしょうがない。』

 

たぶん、マスクをしている人のほとんどは大きくわけてこの2つだと思うけれど、

どちらも恐怖と誰かのコントロールのなかで決めているだけよね。

 

もちろん、あらゆる情報を得ながら今、腑に落ちているならそうしたらいいと思う。

 

でも、限られた情報や指示だけで決めるとなると腑に落とすことはできないから、

結局は選択肢がなく従うだけとなって自分の主張はできない状態に陥る。

 

主体性をもって自分の行動を決めている人は、相手が決めた行動へも敬意を払う。

なので、意見があるときは批判から入らずに教えてもらう姿勢で接する。

 

教わった正解だけが正しいと握りしめている状態で誰かから別の意見を言われると、

自分への批判に聞こえてマウントをとりたくなる。(昔、わたしもやっていた。)

 

でも、あらゆる人から、あらゆる視点をもらうことは、

自分の体験がより豊かに、より深く、それによって氣も楽になると知ったら、

この世界はもっともっと自由であっていいと思えるはずだよ。

 

無数の視点のなかで感じたことをその瞬間にただ表現して、

氣が変わればまた違う表現をする。

そんな風に、どんどんと変化を楽しめばいいってわたしは思う。

 

表現の自由がなくなるって、変化を許さないことだと思うのね。

 

今のわたしは、それがどうしても面白い世界のイメージだとは思えないから、

自分なりの表現をやっている。

 

わたしたちの物質的な命は、どうしたって期限があるからさ。

 

限られた瞬間のなかでどんなことを表現してサヨナラしていくのか、

こんな今だからこそ、これまでに得た全ての尊い体験を愛に変えて、

わたしは毅然とこの瞬間のわたしを生きる。って感じで生きていけると、

きっと巡り巡って繋がって、全ての命は歓喜するんじゃないかな~♪

 

なんて自由なイメージを虹のように広げ、この瞬間も遊んでいる。

 

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