~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

"違う" って "自分" がちゃんと居ること

海の人が言う。

「それは考えすぎ。気にしすぎだよ。」

 

山の人が言う。

「うーん。わかってるんだけどねぇ。」

 

海の人が言う。

「今まで生きていて、そんなに深く考えたことないや。」

 

山の人が言う。

「そっかぁ。別にいつものことなんだけどね。」

 

 

海の人は、山道がくねくねしていることを知らない。

山の人は、潮の満ち引きがあることを知らない。

 

知らなくて当然。

わからなくて当然。

 

違う体験を(生き方を)してきた結果だから当然なんだ。

 

 

どっちもあるから自分を知ることができる。

 

自分じゃない体験をしている人と交わるから人との違いがわかる。

 

"違う" って "自分" がちゃんと居ることだと思う。

 

母は海の人。

わたしは山の人。

 

母と会話しながらわたしは言う。

 

「お互い、宇宙人と話してるみたいだよね。」と。

 

話が伝わらない皮肉ではなく、

『自分が体験したことのない体験をしてきた人』だと尊敬しているのだ。

…としても、ここまでしっかり言わないと正しく伝わらないので注意が必要だ。

 

お互いの体験してきた土台が違うからこそ、

自分が気になる点を具体的に聞いたり会話内での意味を摺り合わせたりしつつ、

異星人同士、何かを伝えたい際はしっかりと話し合うことが必要だと思っている。

 

(まァ、この3行だけ見たら全ての人にも当てはまるけれどね。笑)

 

 

ただ、ここで言う海の人は、

自分の存在を肯定しながら生きてきた人。

 

山の人は、自分の存在を否定しながら生きてきた人という意味で書いている。

 

『死にたい』

 

1度でも "本気で" そう思ったことがある人は山の人。

(小学生ぐらいで遺書を書いたことがある人もいるでしょう)

 

『なんで生きてるのかな?』と素朴な疑問はもったとしても、

本気で『死にたい』と思ったことがない人は海の人。

 

なので、

山の人が深刻になって海の人へ相談をしても、当たり前だが話は通じない。

なぜそんなことを考えるのか自体が謎なのだ。

 

同じく、

海の人の人目を気にしない行動や気持ちの切り替えの早さ自体、

山の人からみたら謎なのだ。

 

例えば、

山の人たちの中にいないだろうか。

 

『死にたいぐらいの体験を皆だって乗り越えながら生きてるんだから、

  自分だってちゃんと頑張って生きていかなきゃ。』

 

と、自分を奮い立たせながら生きてきた人が。

 

わたしはそうだった。

みんな苦しい思いをしながらも "死なないよう頑張って生きている" と信じていた。

 

でも、

実際は『生き死に』のことを特に深く考えたことなく生きてきた人はいる。

苦しくても『死ぬ』という選択肢自体がそもそもない人は存在しているのだ。

(海の人からみたら大げさに聞こえるだろうが、山の人は頷いているハズ。笑)

 

わたしが山のルートで生きてきたことはマイナスでもプラスでもない。

ただ、そう信じて、そう生きていたら山にいただけだ。

 

『なるほどー。わたしは山にいたのか。』

 

それを知った上で選べばいいと思っている。

 

このまま山の知恵を使って生きるのも面白い体験だし、

山のことはある程度体験できたから、海の知恵を知って違いを楽しむのもいい。

そのうち、川も空もあったんかい!と驚くこともあるかもしれない。

 

自分がどこにいるかを知るタイミングは、自分にとって必要があればくる。

別に必要がなければこない。

くる、こない、にも正解はない。

 

山の知恵を得られたからこそ、

ココで "あーじゃないかこーじゃないか" と山目線で書けることだってある。

逆も然り。

 

人間は自分が生きてきた、体験してきたことしかわからない。知らない。

 

自分の今もつ考え方が、ただ1つの視点だと気づけたら、

他の視点の存在にも気づく。

 

 

自分が体験している生き方が唯一無二と思えたなら、

相手が体験している生き方も唯一無二と思える。

上も下も、良いも悪いもないとわかる。

 

全ての生き方を、存在の仕方を、受け入れ信じられるようになる。

 

自分の心の平和が、全ての平和に繋がる。

 

とかいう壮大な話をしたかったわけではないのだけれど、

なんかそうなったし、きりがいいので繋がったまま終わることにしませう。

 

ではまた。