今週のお題「10年前の自分」
最高潮にひきこもってましたね~。
自室から出ず、家族とも喋らず、ちょうど自宅の外装工事をしてた時期だったので、工事の人たちが昼休憩でどこかへ行ってからじゃないとトイレすら行けず…。
昼間に家にいるのは働いてない証拠でダメな状態だと本気で信じてたから、工事の人たちが戻ってきたらまた誰も居ないフリをして夕方5時頃までトイレを我慢する毎日。
働かざる者食うべからず☆も本気で実践して、ガリガリになってフラフラ状態。お風呂に2週間以上入らないのも普通だった。
毎日毎瞬、自分のことを徹底的に責めまくってたのが10年前。
その約1年後の2016年の春、そんな自分にブチ切れて自分を変えていこうと思い始め、どうせだったらその変化の記録をつけていこうと書き始めたのがこのブログ。
気づけばこんなところまで来ました。
今は家も外も好きにうろついてるし、家族とも喋るし、トイレは好きなときに好きなだけ行くし、食べたい物は食べるし、お風呂はキャンセル界隈だけど頑張って2~3日に1回は入って、知らない街へ車で探検に出たり知らない人とも喋ったりする。
とはいっても、凹むときはベッコリ凹む。
ちょっとしたことが痛すぎて、お先真っ暗に感じて全部諦めたくなるときだってある。
ここ最近は、特に無価値感・自他境界・愛着の話などを改めてYouTubeで観てたんだけど、自分がもてていないものばかりに目が行ってしまって、昨夜は「どうしたらいいんだろう」って不安な気持ちが溢れ出して眠れなかった。
前はこういう焦りが出たときに不安だけが大きくなってたんだけど、自分と寄り添いながら10年過ごしてきた2025年のわたしはひと味違う。
無価値感があったり自他境界が引けてなかったりすることが「問題だー!!」と、自分で自分をジャッジしちゃうことこそが余計に不安を大きくしてるだけだって気づいた。
無価値感があることを問題視して「自分はダメな状態なんだ!」ってジャッジして、深刻になって自分を過度に不安がらせてる自分がいる。
例えば、骨折した人が「骨折した自分はダメな状態なんだ!」って自分を責めてたら「何言ってんの。骨折したのは別にしょーがないじゃん。焦らずゆっくり治せばいいよ。」って言うと思う。
骨折してる=ダメ、ネガティブ、不幸 みたいな定義づけがされてることに気づけたら、「骨折してることは事実だけど、今できることをやればいいね。」で終わると思うのよ。
骨折して上手く立てない、歩けない、走れない、動くたびに痛みがある…。皆みたいにできない…。って感じたり思ったりするのも、良いとか悪いとかじゃなくて、ただの体験。
同じように、無価値感があって傷つきやすいとか人間関係がうまくいかないとかも痛みを伴うからさ、そりゃ体験したくないことかもしれないけど、今はただそれを経験してるだけなのよね。
ただ体験してることを「問題だ!!」ってジャッジすると何が起こるかって、不安と焦りしかでない。
「早くなんとかしないと!こんな自分じゃダメだ!このままだと生きていける自信がない!」
って、無価値感があるからこそわたしはよくこの気持ちに駆られるんだけど、その地点から動いても実はどんどん本当の安心感からは離れていくんだよね。なぜなら本来の自分たちは「本当は何も問題ない」って深いところではよくわかってるから。
本当に欲しいのは「無価値感を感じないわたし」ではなくて「ただの安心感」。
「今のわたしはそうなんだな~」って静かに観ることができる自分で居たいだけ。
「無価値感があると不安になったり焦ったりきつくなったりするよね。でもこれも骨折と一緒で、良いとか悪いとかじゃなくただの経験だね。」
って扱い始めると、状況は変わってないのに安心できてそこから考えられるんだよね。
「そっかそっか。ただの経験なんだから別に問題じゃないのか。んじゃ、今できること(したいこと)何かあるかな~?」って安心してリハビリにも励もうと思えば励めるじゃない?
歯ぁ食いしばって自分のことをダメだダメだってイジメながら無理やり進まなくてもいいんだよ。
ダメなんかじゃないから。
今ただそうであるだけだから。
問題じゃないから。
ひきこもってたときのわたしを思い出す度に、あのときは本当にしんどかったけど、「問題か?」って言われたらそのときのわたしにとっては酷かもしれないけど、「問題じゃない」としか言えないんだよね。
ただそれを経験してただけ。そんな経験をしたからこそ、今こんな風にちょっと面白い視点で自分自身と世界を観ることができると思ってる。
10年後のわたしも、今のわたしを絶対に問題だと思わない自信がある。
今年の春で40歳。
何も問題じゃないよ。って自分を安心させながら、自分を信じてこれからも進んでいきます。