~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

問題だったことが勝手に問題じゃなくなる

『ああすればいいのに』

『こうすればいいのに』

 

大体このフレーズが頭のなかや口に出てくるときは何かをコントロールしたいとき。

そしてもれなく、自分がイライラしているときでもある。

 

『そのやり方は間違っている』

『その考え方は直したほうがいい』

 

つまり、

『自分は正解を知っている』

『正解なのに、なぜそうしないの?』

と、モヤモヤしている状態。

 

コントロールの思考は自分に内緒で(無意識で)静かに渦を巻き始めるから、気づかないまま渦が大きくなって自分のイライラもどんどんと大きく加速していく。

 

気づいたときには『なんかわからないけどめっちゃイライラする…』と感じるわけだけど、そのスタート地点は意外と些細な『こうすればいいのに』だったりする。

 

このコントロールの面白いところは、対象が外側だけに留まらないことだと思う。

自分へも同じコントロール(正解という名の呪い)をかけていることがわかるから。

 

仮に「ダラダラせず動けばいいのに…!」と外側へ思ったり言い放ったのなら、

もれなく自分をも同じ言葉で縛ってコントロールをするはめになる。

 

『そうだそうだ。ダラダラするのは良くないんだから、お前(自分)もダラダラするなよ?休むなよ?そんな姿を人前で晒すなよ?ダメな人間だと思われるからな。休まずにしっかり動けよ?ダラダラしてたら人間失格だぞ。』

 

外側に対して『こうすればいいのに』と思ったり言ったりしたとき、何ともいえない窮屈でイヤな気分になるのは、他人の行動が原因ではない。

 

本当は外側で起こっていることにイライラしているのではなくて、自分の本音を本気で信頼できない自分へ対してイライラして(摩擦が起きて)いるだけなのだ。

 

ここだけの話、自分の本音は『全て大丈夫。何も問題がない。』とわかっている。

たくさんの経験を経て『そんなわけはない!』『正解はコレなんだ!』と思い込めているのは、今だからこその体験だったりする。(これも素敵な体験なんだけどね)

 

なので、それがわかってやめたいと思ったら『や~めた』と自分で決めればいい。

 

自分が気に食わない動きをしている人がいたら、その人の動きをただ信頼したらいい。

『この人が選んだことなのだから、この人にとって何か必要なことがあるのだろう。』と、全てを信頼して任せておけばいい。

 

その人がその人のした選択でイライラしていても、わたしには何も関係がない。

その人にとっては正解が1つしかないと思い込めている1つの面白い体験でしかない。

 

言葉で伝えるのは限界があるし語弊があるかもしれない。

けど、愛(本音)はジャッジをしない。全てを包括的に認めている。

パラドックスのようだけど、全てを一旦認めることが逆に自分を楽にする。

 

ここで大事なのは認めるとは従うことではないこと。

『今ただそうである』ことを認めて尊重するだけ。

自分も同じ意見になる必要は一切ない。

 

それを踏まえたうえで、

『な~んだ。本当はただあるだけのものに白黒をつけて排除しようとして摩擦を大きくしていたのは自分だったのか…。時間がもったいなかったな。よし、楽しいことをしよう。』

 

となったらこっちのもの。

さっきまで問題だったことが勝手に問題じゃなくなる。

自分の本音に近づいたからだ。

 

自分の機嫌は自分でとる。これは本当に大事。

自分のなかの何がネガティブの渦をデカくしているのか?を、自分でちゃんと観る。

昨日の記事にも通じるけど、無意識を意識化してイヤな気分に勢いをつけない。

 

時間はかかるけど、自分の本音に気づいて自分を変えられるのは自分しかいないのだ。

自分のなかが軽やかにサラサラと流れ出したとき、きっと体感する現実も変わる。

自分を、そして全てを信じて、新しい月へとまた新たな1歩を踏み出していく。