疑問をもって、
良いも悪いもたくさんの可能性と触れるたびに、
自分を、日本を、世界を、諦めない。と静かに思う。
格好つけのなんちゃってヒーロー参上だね。笑
でも、自分にしか自分は救えないという真実を逆手にとって、
自分が自分を諦めずにさえ居れば、
それがいつしか自然と全てへ繋がると信じているんだ。
怒りがわいても自分を信じて真ん中に。
もどかしくても全てを信じて真ん中に。
そんななんちゃってヒーローの自分が今できることも、
指を動かしてただ選択肢を見せるだけ。並べるだけ。
あらゆる選択肢は無数にあるけれど、
自分を信じるという選択肢は『決める』に際し、どうしても欠かせない。
疑問をもったうえで『自分はどうするか』が要になるからだ。
自分が信じられない状態の人は、
『自分が信じられない状態になっているのは何故だろう?』
という疑問からはじめられるといいね。
疑問をもてるということは、
客観的に自分を観察できている状態だから、問題の点の中にはいない。
感情に飲み込まれず、少し点から離れたところに存在できている。
『どうせ自分なんて…。泣』
で止まらずに、
『どうせ自分なんて… と、毎度落ち込んで、自分を責めてしまうのは何でだろう?』
と、感情を堪能したあとにでも、
自分の思考を観察してみると面白いよ。
その瞬間、解決の点が見える場所に自分を確実に置いてあげることができるから。
ただ、あくまでも自分の "思考" を疑問視して観察することだよ。
自分の "存在" をいくら疑問視したところで、そこはずっと問題の点の中なんだ。
そうやって客観的に自分を眺めるタイミングにきたら、
今の自分の状態が少しずつわかってくる。
そしてだんだん目が覚めてくる。
たくさんの疑問から自分を知りはじめたことで、
たくさんの疑問をもちながらこの社会や世界を見渡すことがはじまり、
そして疑問の数だけ可能性を知ることになる。
そのあらゆる可能性に翻弄されないためにも、
この瞬間の自分が、今どこに意識を向けているのかを常に観る。
全ての可能性は点として置く。
それ以上でもそれ以下でもない点として置いておく。
そして、点と点が繋がりはじめたらその繋がった線もただ置いておく。
何が言いたいのかさっぱりわからなくても大丈夫。笑
この記事もただの点だから、頭の隅にただ置いておくだけで大丈夫。
…
子どもらの答えが間違っている時はすかさず赤ペンで大きくをバツを施し、
教科書という正義に基づいて "正解" を、生き証人のように絶対だと教える大人たち。
『【実際】を見たことのない大人が、
なぜ宇宙の正解を語り、なぜ歴史の正解を語り、
さらにその誰かの正解で人を評価し判断するような世界であるのは、
果たしてなぜなのか。』
小学6年生のわたしが素直にもった疑問と凄まじい違和感は今でも形を変えて健在だ。
…
疑問を起点として、視点という名の点を増やし、
自分はもとより、自分を取り巻くあらゆる出来事を俯瞰していくと、
だんだん氣持ちが落ち着いてきて心も今いる空間も静かになる。
目の前に立ちはだかっていると思っていた壁がだんだん小さく感じ、
意識が今ここに戻ってくる。
目の前の状況は変わらないけれど、そこで感じる意味合いが即座に変わる。
全てが同時に存在している "在る" だけの状態に氣づく。
『決める』のは、その場所からがいいと思う。
なんてあれこれ好き勝手を言っているけれど、全ては自由だからね。
だからこそ、
1つ1つ過程を経た最後は自分で『決める』必要があるってこと。
必要な人に、この "点" が届き、繋がったことへ感謝。