~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

ひきこもりの人をなんとかしたいと思う人へ

『ひきこもりの人をなんとかしたい』

 

と思う人は聞いてください。

大切なことを1つお伝えしたいです。

 

【あなたがいくら頑張っても、

 その人を助けることはできません。

 できるのは、信じて待つことだけです。】

 

この意味が分からない人は、

ただいま絶賛『自信がない』状態です。

 

『いいえ、わたしは自信をもっています!』

 

という人は、自信の意味をはき違えています。

 

自信とは、

結果の上に成り立つものでもなく、

誰かの賞賛と共にあるものでもありません。

 

『うーん。やっぱりわからん。』という人は、

ひきこもりの人と共に、本当の『自信』を知るスタートラインに居ます。

あなたも、ひきこもりの人と同じ学びのステージにいるのです。

 

『わたしはちゃんとやっています。ひきこもりの人と一緒にしないで。』

 

『助けることもできず待つだけなら、

 支援団体のようなところへお任せしたらいいでしょう?』

(まるでドッグスクールに丸投げする飼い主のようですね…)

 

この考え方は、

まさに自信のなさからくる愛と創造力の欠如だと思います。

それは相手にとっても、自分にとっても何もメリットのないものです。

 

『ひきこもりの人が、これ以上にダメな人間となってしまっては大変だから。』

 

ハイ。

 

それは誰の不安ですか?

 

それは誰がダメだと思っているのですか?

 

それは誰が大変なことになると感じているのですか?

 

 

誰 が ? で す か ?

 

 

ひきこもりの人は、あらゆるコントロールにうんざりしています。

そして、追い打ちをかけるように自分へも同じコントロールをかけています。

 

あらゆる原因に一切目を向けず、今この状態をただ何とかしなくては!と、

『とりあえず外へ出す』『人様に全部お願いする』『薬だけに頼る』、

このような応急処置には意味も愛もありません。

 

一見よくなったように見えても、長期的に見ればまた同じ事が起こるでしょう。

人に迷惑をかけたくない、と自分を押しころして生きてきた人たちです。

心は悲鳴をあげても我慢して笑って『前向き』を演出します。

 

 

『支える側も、もう限界なんです!』

 

という言葉は聞こえが良いですが、

残念ながら本当の支えにはなっていなかった側面も認めることが必要です。

支えることとは、経済的な面倒を見るだけを指していません。

 

『ゴロゴロせずに働いてよ…』

『恥ずかしい…』

『こんな歳にもなって…』

 

そう思いながら接していませんでしたか?

 

ひきこもりの人にはすべて伝わっています。

 

支援には経済的なものも必要ですが、

それより大切なものが支援側の『本当の自信』と『信じて待つ覚悟』です。

 

いつまで続くのかわからない気の遠くなる長い道のりです。

 

でも、

信頼して向き合い、待っていれば当事者は勝手に気づきます。

勝手に自分を変えはじめます。

勝手に自分を信頼し始めます。

 

『そんなことあるわけがない』

 

と思うところに光があったりします。

 

1つの事例に過ぎませんが、わたしの場合はそこが光でした。

この体験ができていることへの感動は、

今までのどんな努力と我慢の感動より温かく、壮大で、愛に溢れています。

 

『ひきこもりの人をなんとかしたい』と思うなら、

まずあなた自身を見つめてください。愛してください。

 

『なんとかしたい』を自然と手放せるようになったとき、

勝手に『なんとかなります』。

 

【信じて待つ】とは、

とてもシンプルだけれど、とても難しく、愛の底力が試される時間です。

そこを乗り越えた時、当事者、支援者、ともに学びであったことに気づくのです。

 

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