痛みを意識的に味わったらどうなるか?
痛いだけ?それとも?
下腹部がギュゥ~~~っ!と締め付けられるような強い生理痛を感じた瞬間、『い"た"た"た"た"た"…!』と痛みに煽られて身体に力が入り、早く痛みが過ぎ去ることだけを願ってただ耐えることしか選択肢がなくなる。
でも今日の自分はひと味違った。
『い"た"た"た"た"た"…!』と痛みに煽られはじめた瞬間、ふと閃いた。
『めっちゃ痛いけど、この痛さもここでしか味わえないか…。よし、感じてやろうじゃないの。味わってやるわ!』ってね。言葉にすると、どんだけドМなんだよwって感じだけどそういう意味じゃないから。笑
痛みを感じてるときって自分ではない外部から容赦なく攻撃をされてる感じになって無力さ満点なんだけど、意識的に痛みを味わってやろうって視点を変えた瞬間、痛みを感じている自分を丸ごと捉えることになるから、現実を飲み込む感じになるんだよね。
視点を端的に示すとこんな感じ。
① 痛み ← 自分
② 痛み ← 自分 ← 俯瞰してる自分
①は "痛み" だけにフォーカスをかけてるから自分の現実はいやでも痛みが占めることになる。
②は "痛みを感じてる自分そのもの" にフォーカスがかかってるので、痛みはあるものの痛みに直接目を向けてはいない。
言葉にするとわかりにくいし素敵なパラドックスなんだけど、痛みを意識的に味わっている自分を感じようとすると意識が拡がって余白ができるんだよね。
『痛い痛い!』で終わらずに『痛い痛い!を味わってる自分が今ここにいる~!』という視点を使うと、痛みは変わらずに続いていても余裕が出る。つまり、安心をしているんだろうね。
"痛みを味わっている自分"を俯瞰した瞬間に大きな意識の視点で自分を観ることになるから、そりゃぁ安心して当然か~。とも思う。そして、痛みで硬くなった身体も少し緩む感じがするし、無力さに代わって自分が目の前の現実を飲み込んでいる感覚によってパワーも戻ると思う。
痛みが出ると自分からさっさと切り離したくなるし目を背けたくなる。自分だって痛いのはイヤ。(笑)でも、ちょっと勇気を出して痛みに違うアプローチをしたら、頭じゃないところで安心できたよ。
目に見える痛みも目に見えない痛みも、意識的に利用して自分の心身がどう変わっていくのかを今後も実験していきたいと思う。目の前の現実にただ振り回されるだけじゃなくて、目の前の現実を飲み込んで意識を拡げられたら自分をもっと楽にできるはずだから。