~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

自分の悩みの深刻さが相手に伝わらなくて辛い人へ

Aさん:『考え過ぎだよー。気にしない♪ 気にしない♪ 』

 

Bさん:『それができたら苦労しないんだって…。』

 

という、お互いに理解できない・されないのよくあるやり取りは多いが、

2人の状態をプールのイメージでまとめてみたので書いてみる。

 

Aさんはスタート台(番号がふってあるアレね)から飛び込み、

飛び込み後は一瞬水に潜るもののすぐに浮いて泳ぎ始める。

 

Bさんは水面から10mの高さにある高飛び込み台から相当の覚悟をもって飛び込み、

飛び込み後はだいぶ深く沈み、なかなか水面にあがってこない。

 

水に入るというシチュエーションは、

新しいことを始める時や人とのコミュニケーションなどの例えだと思ってほしい。

 

AさんもBさんも、自分と同じ位置からみんなも飛び込んでいると信じている。

 

なので、Aさんからすれば『これの何が怖いの?何で悩むの?』となり、

Bさんからすれば『こんな怖いのに、みんなどうして気にならないの?』となる。

 

飛び込む高さに比例して怖さもあがるため、

同じ "水に飛び込む" というシチュエーションでも感じ方や捉え方がまったく異なっている状態だ。

 

ではなぜ飛び込む高さがこんなにも違うのか?

 

それは、今の自分をどれだけ等身大で受け入れているかの否かの違いだと思う。

 

何かにチャレンジしてどんな結果になろうと、わたしの価値は何ひとつ変わらない。

成功しようが失敗しようが、褒められようが怒られようが、わたしはわたし。

だと思っている人たちは行動が早く、イヤなことがあってもすぐに切り替えができる。

 

サッとスタート台に立って自分のタイミングで飛び込み、すぐに浮上して泳ぎ出す。

Aさんはこれを無意識でやっている。

 

一方のBさんは、結果を気にする。

なぜなら、今の自分はダメな人間であり自分の価値は結果で決まると思っているから。

 

失敗をせずにもっと評価を上げなければ、バカにされ怒られ、自分の価値はなくなる。

だから『もっともっと』頑張って違う自分にならなければいけないんだ!と思う。

 

この『もっともっと』が飛び込み台の高さに比例する。

 

これを高い理想と言えば聞こえはいいが、

それは理想というより恐怖によってもたらされた自分ではない誰かになる行為だ。

 

Aさんが良くてBさんが悪いなどと言いたいのではなく、

みんな自分の体験に基づいた意見しかできないのだと理解をしておいたほうが、

お互いに(特にBさんにとっては)心が少しでも楽になるよって言いたい。

 

Bさんは無意識に巻き起こっている恐怖のせいで『もっともっと』と思ってしまうが、

Aさんはその恐怖自体を体験したことがないので、Bさんの思いをわかりようがない。

 

冒頭のやり取りが起こりやすいのもそのせいであり、

1番の要は、Bさん自身がその恐怖(無意識)に気づいていないことだったりする。

 

わたしもそうだったが『もっともっと』に駆られていた時は、

自分は強い人間で恐怖なんか別に感じていないとさえ思っていた。

 

けど実際は、

自分が今の自分のことをダメだと無意識で認識し続けている事実を認められず、

強いフリと恐怖を感じていないフリをして、

自分の価値と居場所を『周りからの評価』でなんとか守っていただけだった。

 

それを無意識のうちにやってしまっていることに気づけず、

恐怖感の深さだけ飛び込み台の高さを『もっともっと』と自分で高くしてしまい、

水に飛び込んだあとのダメージ(水深)も『もっともっと』深くなってしまっていた。

 

深く潜ってしまった後の話や飛び込み台の高さを低くする話も続けたいところだけど、

長くなりそうなので続きはまた今度にするね。

 

 "水に飛び込む" という出来事は同じでも、

飛び込む前や飛び込んだ後の体験(感覚)はみんな違う。

 

『自分の悩みの深刻さが相手に伝わらなくて辛い…。』

というBさん側の気持ちも痛いほどわかるけど、

まずはこんなプールみたいなイメージの視点をもって観てみるのはどうだろう?

 

客観的に観ることによって、

まずは少しでも心がゆるんでもらえたらなって思う。

 

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