~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

見えない道具

窓辺から差し込む陽に照らされてキラキラ光る愛猫の長い耳毛を見ながら、

ヤバいほどシンプルなことに気づいてしまった。

 

前回の記事ともリンクする話なので、

まだ読んでいない人は読んでからのほうが理解しやすいかもしれない。(たぶん)

 

 

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わたしは子どもの頃から常に "生死" を考えてきた。

 

『何で生きているのだろう?』

『何で死ぬのだろう?』

 

大人になればわかるだろうと勝手に期待していたので、

勝手にあっさりと裏切られてきた。

 

だが、

その『問い』のそもそもの原因に気づいてしまった。

 

以下、

わたしの勝手な解釈をまとめてみるけど、

自力で解釈を見つけたい人は悪いけどここでUターンしてね。

 

読む人は、自由な1つの視点としてお楽しみください。

 

 

 

『生きている』

 

今(現在)そう思えるのは、

 

『死ぬ』

 

という結果(未来)を知っているからだ。

 

2つの状態を俯瞰して比較するからこそ、生死のどちらかに自分が居るかを知る。

 

命を時間という軸で考えて、

命を時間という枠にはめて考えるからこそ "生死" という概念も生まれる。

 

始まりと終わり、

過去と未来。

 

時間がもたらすこの概念を知らない限り、

 

"生死" は知り得ないと思った。

 

つまり、

前回 "今" とも言えない今に在るだけの、

2歳の甥っ子や愛猫は『生』『死』に自分を当てはめられない。

 

時間の概念をもっている人たちから見れば、

当然彼らを『生きている』と判断するが、

本人たちは『生きている』とは自分を判断しないしできない。

 

ということは、

 

『何で生きているのだろう?』

『何で死ぬのだろう?』

 

という問いそのものが、

時間の概念をもったが故に発生しているだけなのでは?と考えた。

 

時間という認識(ルール)を使って遊びながら、

時間という道具(ヒント)を使って人生の謎を解いていくような具合だろうか。

 

 自分なりの解釈が浮かんだ途端、ボロボロと涙がでた。

拍子抜けというか、絶対にあると思っていた床が思いっきりスコンと抜けた感覚。

 

『時間は一応あるが、時間そのものを知らなければ、時間などない。』

 

そんなバナナ。である。

 

 

そりゃぁ、愛猫の顔を見る度に、

 

『今、この子は明日のご飯がちゃんとあるかどうかなんて考えてないよね。』

『今、なんで生きてるんだろうとか死ぬこととか考えてないよなぁ。』

 

なんて思ってはいたけれど、なぜ自分がそう感じるのかも謎だった。

 

こんなにも悩んできた問いが目の前の愛猫にはそもそもない。

ないことも感じないほどの、ないの圧倒的スケール感!

 

なんてこったパンナコッタ。(言いたいだけ)

 

人間は地球上で様々な生物達と共に生きているけど、

時間というルールを追加して遊びたかったのかしらね?

謎解きゲームの難易度を増すような感じでさ。

 

時間の概念をすこぶる信じて腑に落としまくったから、

過去という記憶を悔やんだり、未来というイメージで悩んだり、

過去という記憶を懐かしんだり、未来というイメージをワクワクできたりするわけだ。

 

結局、時間の概念は1つの道具で、要は使い方なんだろうね。

 

その道具だって、この瞬間である "今" しか使えないのだから、

過去、現在、未来、が全てが "今ここにある" というよくある話にも通じる。

 

でもこれは、わたしの自由な1視点で、わたしの正解。 

 

 

好きなように道具を使って楽しんで、

たくさんの『問い』を創造しながら、

豊かで面白い冒険がこれからもできるといいなって思ってるよー。

 

ということで以上、

『問い』の原因に関するわたしなりの勝手な解釈でした。

 

見えない道具のおかげで、

道具を見えるようにすることだってできるのだから面白いね。笑

 

ではまた!