~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

充実感や達成感なんて感じなくていい

日々の充実感や達成感などを『生きている感じがする!』ということに繋げるのは、

大人の概念なのかもしれないという話。

 

何をまた言い出したのかと思われるでしょうが、

書いている本人も似たような思いなのでしばしお付き合いください。ええ。

 

昨日、思いっきりソロファイヤーを決めたわたくし。

(何のことはないただのたき火です)

 

5時間も1人で庭にいたのに火を消すまで本当にあっという間で、

身体と時間が許すのならまだ遊んでいたいぐらい楽しかった。

 

ちなみに、腰にくるかと思われたダメージは股関節にきましたよ。アイタタタ。

ナタやノコギリで枝を切って炉に運ばなくちゃなので屈伸が多かったからかなァ…。

 

まァそれぐらい夢中になって作業をしていたんだけど、

昨夜ベッドに入ってから充実感とか達成感みたいなのは特に感じなかったのね。

 

『今日は頑張ったなぁ!』とか『やり切った!』『いい1日だった!』的な?

 

そんなのも感じられないぐらい心が疲れちゃってるのかな?

とも考えたんだけど、フと気づいたのね。

 

子どもの頃ってそんなことを思いながら生きてなかったよね?って。

 

『今日は砂場で大きなお山が作れて、しかもトンネルを作って水まで流せた!

 いや~~~~~今日は充実した1日だったなぁ!!生きてる感じがするわぁ!』

 

みたく1日の総括的なことなんてせずとも遊んだあとはただ疲れてただ寝てた。

 

思いっきり遊んだあとの『あ~面白かった!』的な、言葉にすらしない感覚に、

大人の言う充実感も達成感も別にないっていうか、

そういう概念すらそもそも入っていないというか。

 

遊んだことによって残るものと言っても、

『あの場所で楽しく遊べたからまたあの場所に行こう~っと♪』

ぐらいなもんで、そこに我々大人が言う達成感だの充実感だのみたいな感覚ってない。

 

・子ども:楽しい!また遊ぼう!

 

・大 人:楽しい!また遊ぼう!なんて思えたから今日はいい1日だったなァ。

 

うまく伝わっているかわからないけど、この違いって面白いなーと思ったのね。

 

大人になるまでに、あまりにも結果を重視するような言われ方をされて育つからか、

・今日がどうだったか?

・有意義な1日だったか?活用できたか?

・人の役に立ったか?

みたいな『できたこと』で1日を総括するクセがついちゃっているのかなと。

 

だから、今日1日なにもできなかったとなると途端にダメな1日、ダメな自分。

のような極端な判断をしてしまいがちになるのかなって。

(なにもできなかった、しなかった1日なんて本当はないんだけどね。(・∀・)トイレイッタ)

 

大人たちが過去を見ている間に子どもたちは今を体験してて、

大人たちができたことにフォーカスをしている間に、

子どもたちは今『次、こうしよう!』にフォーカスしてただ通り過ぎる。

 

充実感とか達成感って本来言葉にならないものなのかも知れないね。

 

そこにただあったもの、あるもの、で、

それをいちいち振り返った時に言葉として存在できるっていうかなんていうか。

 

さらにそれ以上振り返って、

『今日はこんなことまでできたぞー!やったぁ。ちゃんと生きてる感じがする…。』

とか感じる(感じられる)のも大人だけだよね。

 

別にそう思うのが良いとか悪いとかなんて話じゃないのだけど、

そんな風に充実感とか達成感を紐付けなくても生きていることに変わりはないのよね。

子どもたちがそう生きているように。

 

わたしも当たり前すぎて気づいていなかったことだけど、

今回改めて新しい?…いや、思い出した視点で観ることができたからか、

『ああ、別に充実感や達成感なんて感じなくていいのか。』

ってストンと腑に落ちたんだよね。

 

それが何となく面白くて頭のなかを整理しようと思って書いたよー。

ちょっと分かりづらい話だったかもしれないけど、

いつの間にか概念に縛られていたお茶目なわたしの話でした。

 

 

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