~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

クソみたいな自分の側面を抱きしめる

ここ1ヶ月ぐらい、近所の認知症のおばあちゃん(Aさん・一人暮らし)が1日に1回は我が家へ訪ねてくるようになった。

 

訪ねてくる理由は、

家の玄関が開かない(鍵を落として紛失or元々鍵が閉めていないのに鍵がないので開かないと思い込んでいる)

テレビがつかない(昔の記憶が蘇っているのでリモコンではなくテレビ本体をいじってる)

新聞が届かない(読んでいないので娘さんが止めたが理解できていない)

ガスの火が消えない(IHで鍋を温めたあとの赤い点灯ランプが火だと勘違い)

等の不安のため。

 

多いときは1日に3回(午前中・夕方・夜(19~20時ぐらい))来るときもあって、その度に毎回Aさんの家まで付き添って不安の種を解消しに行く。そのため現在では家族共々、玄関のチャイムが鳴ると真っ先に顔が浮かぶ1人となっている。

 

Aさんは全く知らない人ではなくて、長年近所で挨拶も交わしてきたし、認知症になる前は活動的で元気なお喋りさんだった。でも、流行の風邪で人と会わないことが多くなってきた辺りから様子が変わり始め、今では介護認定を受けて生活している。

 

デイサービスやヘルパーさんなどを利用しながら、Aさんの娘さん(同じ市内)も週1で様子を見に来ている状態なんだけど、Aさん1人では生活が困難な状態になっているのでAさんの不安が絶えることはない。正直、グループホームレベルだと思われる。(が、グループホームの空きがない。)

 

ちなみに、Aさんの娘さんは近所の人たちの家へは行かないように言っているらしいけど、Aさんは娘さんに「わたしはそんな所へ行ったことは1回もない!」と言っているらしい。認知症あるあるだね。

 

まァそういった状況なので、もちろん出来ることはしたいと思っているけど、毎日必ず1回以上の訪問は… 

 

心から面倒くさい。

そう、これが本音。

 

昼夜問わず、来られる度に転倒のリスクもある(夜は懐中電灯も持たずに来る)のでAさんの家まで送らないといけないし、不安が解消されるまで玄関チャイムは何度でも鳴り続ける。

 

でも、きっと以前のわたしだったら自分の本音が出てきても全て頭で封殺してる。

 

『人が困ってるのだから助けるのは当然でしょう?』

『自分がAさんの立場だったらどうするの?』

『面倒くさいとか言うもんじゃないよ』

 

ってね。

でも今はこう。

 

『ウザっ』『めんどくさっ』『うるさっ』『またか』『いい加減にして~~~』

 

この、人でなし&ろくでなし&人として最低!な自分の本音をしっかりと受け止めた上で "どうするか?" を、毎瞬自分と相談して決めてる。

 

玄関チャイムが鳴っても出たくないときは出ないし、出てもいいかなと思うときだけ出てる。

先日は、自分に余裕があったのでたっぷり1時間、妄想満載のAさんの話をAさん宅の玄関先で聞いたけど、ちょっと疲れたのでやり過ぎたなと思った。

 

人はキレイな話が好きだし、キレイな自分が好きだ。

常識的なことをしている自分、ありがとうと感謝される自分、人として正しいことをしている自分。そんな自分だったら何となく安心だと思ってる。

 

もちろん安心を感じていてもいいけど、自分の本音をしっかり掴まないままキレイゴトをやり続けると、自分にしっぺ返しが来ることをわたしは以前の自分の体験から学んだ。

 

自分の本音を受け止めないまま、『~ねばならない!』『~するのが当たり前!』だけで突き進むと、そうではない動きをしている人たちが憎くて仕方がなくなるし、我慢…我慢…の末にいつか自分が大爆発する。

 

だから、今は自分の本音を1度これでもかっ!てほど抱きしめてる。

 

その本音を他人が聞けば、人でなし&ろくでなし&人として最低!だと思うかもしれないけど、そんな自分の側面があることを自分以外に誰が認めてあげられるだろうか?とも思ってる。

 

わたしはキレイなだけの人間じゃない。

わたしは汚いだけの人間じゃない。

どちらもある最高に豊かで面白い人間。

 

そして不思議だけど、クソみたいな自分の側面を抱きしめると誰かのクソみたいなところもそれでいいと思える。

 

ぐちゃぐちゃでわけのわからない、見たくない触れたくない自分の側面に自分でOKできたら、誰かのぐちゃぐちゃな側面もそのままでいいと思える。だって、それはその人の一部であって、その人自身(そのもの)ではないとわかるから。

 

自分が自分のことをしっかりとわかった上で、どうするかを決められたらいいと思う。

イヤならイヤでいいし、イケそうならやればいいし、どんな結果になってもいいし、どう思われてもいいし、理想的で完璧な自分なんて無理だし。

 

どんな自分が自分のなかに在ってもいい。

というか、どうせ在るんだから在るものはさっさと認めて楽になったほうがいい。

そんな風に改めて思えたのは今回のAさんの訪問のおかげかも。

 

本気で自分を愛するきっかけをAさんからもらえたことに感謝しつつ、自分が無理しない程度にバランスよくやっていけたらと思う。