~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

代々伝わる無価値感

無価値感が金を投げさせ、

金を投げつけられたという無価値感が悲しさを纏った怒りに変わる。

 

こんな無価値感の連鎖、ここで止めなきゃダメだわ。ほんと。

 

 

祖母が美容室で髪を切りたいというので送迎をした。

近所の美容室までは車で1分もかからない。

 

最近、歩くのがかなり不安定な祖母。

父が祖父母用にそれぞれ1本ずつ購入した杖は、まだ1度もデビューしていない。

使わない理由はいくつかあるようだが、大方は世間様の目が気になるから。

 

祖父母とも体裁を気にする人だ。(祖父はもう亡くなった)

その孫ももれなくそうなったが、ただ今軌道修正中。

 

「こんな状態で行けばみんなに迷惑がかかる。」

「こんなばあさんが行っていいような美容室はないだろう。」

「あ…○○さん(近所の男性)だ。(と言いながら助手席で顔を伏せる)」

 

セリフからわかる祖母の無価値感たち。

 

90年ほどネガティブを感じ続けてきた彼女の気持ちは、

3分の1ぐらいしかわからない。…というのも嘘で、たぶん何もわからない。

わたしは祖母ではないから。

 

 

足のことを考えて祖母宅の玄関近くに車を止め自宅に戻る。

が、駐車し終わったころには祖母がうちの玄関まで歩いてきた。

 

『ちょ…歩いてきてるし…!

  いやいや…、何のために向こうで降ろしたのよ…。』

 

なんて思いながら家の鍵をあけていると、横から祖母が

「タクシーで行けば云々…」と言いながらお金(お車代)を渡してきた。

 

申し訳なさがいっぱいになって、なんとか気持ちを伝えたいのはわかる。

 

でも、そもそも車で1分もかからない場所。

そんな距離でタクシーを呼んで金を払うなんてバカバカしいにも程がある。

バカバカしいことにならないために車を出したに過ぎない。

 

なのに、目の前の人は金を払おうとする。

わたしは「いやいや…要らないよ。」と断った。

 

その瞬間、

祖母は少し開いていたドアの隙間から玄関のたたきへ金を投げつけた。

 

『気持ちだけでいいよ。ありがとうね。また何かあったら連絡して。』

 

よくありがちな終わり方をしようと思っていたのに、

投げ銭をされた瞬間、今度はわたしの無価値感が発動して怒鳴った。

 

「なんでお金を投げるの!?」

 

「なんでって、お金があるからよ。」

 

「お金を大切にしなさいって、

  いつも言ってるのは自分じゃん!」

 

2度折られたお札を拾い、祖母の手提げバックに押し込む。

 

「気をつけて帰ってね。」

 

そう言って玄関を閉めた。

 

怒ったものの、

祖母の『気持ちを受け取ってもらえなかった=自分を拒否された気がした』

無価値感も同時に感じる。

 

少し冷静を装って笑ってみせ、

そう言って玄関を閉めることが今のわたしにとって出来るギリギリの対応だった。

 

無価値感をベースに生きている人間がぶつかるとこうなる。

ちょっとしたことが自分の中で大ごとになるのは深刻であり滑稽でもある。

 

「今からお母さんの悪口を言います。」

 

わたしの車の助手席でそう言い始めた祖父を怒ったことを思い出す。

きっと、ずっと不安でずっと寂しかったのだろう。

 

そして、祖母もずっと不安でずっと寂しいのだろう。

 

わたしもそうだった。

 

だからこそ、先に言う。

わたしは祖母を助けることなんてできない。

 

わたしが出来ることは、わたしの無価値感に気づくことだけ。

 

もう、こんな不毛な無価値感の連鎖はおしまいにしよう。

 

ばぁちゃん、気づかせてくれてありがとうね。