~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

そういう人が居るだけ

排除しようとすると、余計に目の前に現れる話。

 

この世界で生きてるとさ、

自分の価値観と合わない人って山のように居るよね。

 

そして、

なぜか1度氣になりはじめるとずっと目に入ってくるわけ。

 

それってなぜかわかる?

 

自分でもイヤなら見なきゃいい…!ってどこかで思いつつも、

なーぜーか、ブルータス。

 

えと、『お前もか。』ってやつね。笑

 

答え合わせの前に、逆のバージョンでも通じるから1つ実験をやってみよう。

 

 

あなたの好きな色はなに?

 

今、自分の近くにあるその好きな色を探してみて。

その色がついている物なら何でもいいよ。

探す時間は5秒ね。 さぁどうぞ。

 

 

 

 

どう?

見つけた?

 

まぁ時間内に見つからないにしても、

この時間は意識して自分の好きな色を探したよね?

 

街中でも自分が好きな色や好きなデザインがあると目につくと思う。

 

自分が好きなブランドのお店や興味のあるもの、

自分が乗っている車と同じ車などは街中でもよく目につく話、聞くでしょう。

 

つまり、

『目につく』というのは、

自分が意図せずとも対象のものへ興味があり意識が向いている状態。

 

しかも自動運転のように無意識で引っ張られている。

 

なぜ無意識なのに意識が向くかといえば、

無意識の領域にこそ、

【○○はOK!】【○○はダメ!】

という価値観がセットされているからだ。

 

食べ歩きは絶対にダメ!という価値観がセットされている人は、

街行く人たちのなかで食べ歩きをしている人たちがことごとく目に入ってくる。

 

そして隣のいる友人に愚痴をぽろり

 

「さっきから食べ歩きしてる人ばっかり!ほんとマナーがなってないよね!!」

 

しかし隣にいた友人はこう言う。

 

「え?そう?全然氣づかなかった。ていうか、この通り花屋さん多いね。」

 

このような展開だと、

食べ歩きのカウントしていた人は花屋さんの多さには氣づいていないことだろう。

 

例え話だが、こういう何氣ないやり取り、きっと身に覚えがある人も多いはず。

 

何に意識を向けているかが、自分の目の前の現実を創っている。

しかも無意識の価値観がそのあらゆる手助けをしている。

 

としたら、

無意識で自分がもっている価値観が一体どういうものであるかを知っていることが、

自分が見たい世界を創れることを意味する。

 

でもそれは、食べ歩きの人がこの世から居なくなるという現実ではない。

 

食べ歩きの人が居ようと居まいと、興味がなく氣にもならない。

ただ『そういう人が居るだけ』の世界となる。

 

無視は、相手が氣になるからこその行為だと聞いたことはない?

 

なぜなら、無視というのは意識しないとできないことだからだよ。

興味があるから意図してそうする。

これは、かなり意識をして、かなりエネルギーを使う行為なんだよね。

 

排除しようとしたり、無視しようとしたり、

意図的に "ない" ものとして扱おうとすると、

余計に自分の目(現実)に入る。

 

自分たちが生きているこの世界は二元性。

 

ナニカを排除しようとして自らのバランスを崩すことがあると、

そのバランスを取り戻そうとまた自ら排除したいものを現実に登場させる。

 

ジャッジやコントロールのない状態が自分であることを氣づかせるために、

それは永遠繰り返される。

 

こんな上司いやだ!こんな友人いやだ!こんな親いやだ!

 

その次のステージに、必ず似たような登場人物が出てくるのはそういうこと。

 

勘違いしちゃいけないのは、

自分とは違う価値観が "ただ在る" という俯瞰が要であって、

苦手な人や要らない価値観の言いなりになり受け入れても意味はないってこと。

 

排除なんて考えずに目の前を通った時は "あなたはそうなのね" と見送る。

そしてそれ以上、意識を向けないこと。

それでも意識をしてしまう場合は、自分の中の価値観と向き合うタイミング。

 

『彼らが、あの人が、こういう人が、こんな人たちがわたしをイライラさせる!』

 

そのイライラこそ、自分のバランスを整えてくれる優秀なアドバイザーなんだ。