わたしが日々過ごしている部屋には猫8年目の猫がいる。
お互いひとりの時間を愛しているので大変に付き合いやすく、
しかし甘えたい時には容赦なくベロンベロンに甘え甘えられ、
寝る前は腕枕をしながらしみじみと今日のことを語り合う。
わたしの猫アレルギーLv.4は何処へやら?というなんともベストな関係にある。
先代猫と今の猫。
同じ猫ながら違うのは人の子も一緒だろうが、
個性の幅のおかげで学ぶことが山ほどある。
昨朝にはじめて猫のサーモンピンク色の吐瀉物を見た時は、
『びょびょびょびょ…病院へ!』
と吐瀉物の写真を撮りながら焦ったのだが、
情報を集めて冷静になったうえで、
『様子を見てみよう』
『彼の身体を信じてみよう』
と不安はありつつも覚悟して部屋で観察をはじめた。
結果としては、
嘔吐から12時間後に食事をはじめ、36時間後に飲水を確認できた。
あとは、上からじゃなく下からしっかりとブツがでてくれば言うことなし。
というところまでの回復を見事に遂げた。
鳴く事からはじまりゴロゴロと喉を鳴らしたり、爪とぎ、日向ぼっこと、
1つ1つ元気になっていく過程を見つつも『次は○○ができたらええな…』と、
心配は尽きることなく常にあるもんだな。と思った。
体調のすぐれない我が子を見守る世の親たち、はたまた人生全般も同じだろうか。
こちらの不安を取り除きたいだけならさっさと病院へ行き、
点滴を1本ぐらい打てばわたしの気持ちは落ち着くかもしれないが、
その移動・過程で味わう彼らのストレスは並大抵ではない。
点滴を打てば心臓にも負担がかかる。
わたしたち人間よりはるかに身体の声をきける彼らだ。
その時に必要なことをしている。
じっとしているのも、食べないのも、回復をするための土台作りだったりする。
が、その土台を作れないぐらいの状態や体力かどうかを見極める必要はあるため、
声を聴けない人間はこの状態が1番不安で落ち着かない。
元気な時も体調がすぐれない時も身体はその時やれることを全力でやっている。
これは動物に限らず、人間も一緒だ。
人間はついつい病院が、薬が自分の身体を治してくれている。と本気で思いがちだが、
あくまで医療はサポートであり本当に治しているのは身体自身だ。
自分の身体を徹底的に信じる猫を見ながら、
その猫を徹底的に信じてみたわたしにも同じ部分があると少し誇らしく思えた。
手放しではなく冷静な見極めと判断は必要だが、
『自分を信じる』という姿勢を声なき声で教える素晴らしき毛玉たち。
あの猫もこの猫にも頭が上がらない。
教わることがまだ山ほどある。
今夜も腕枕をしながらありがとうを伝える。