~ゆるふ らいふ~

緩んでホッとして我に還っていくわたしの記録

どんな在り方でもわたしはわたし

【自分は〇〇である】という設定が、体験する世界を変えていく。

 

今日みた夢では、人間の自分をやっている時とそうじゃない時の自分を体験をすることができた。

 

起床後、『あの夢のシーンは人間の自分を見事にやっていたなァ…』と感心したのは、夢の中での寝起きシーン。

 

わたしはすこぶる目が悪いので起きている間はコンタクトレンズを着けており、外したあとは眼鏡で過ごす。

 

【自分は視力が悪い人間である】

 

という自分にとっては当たり前の設定を日々過ごしているからか、なんと夢の中の寝起きシーンでもしっかりと視界がぼやけているではないか…!『これでは何も見えない…』と夢の中で眼鏡をかけた瞬間に今度は夢の世界がくっきり見える。

 

目の悪い人なら共感してもらえると思うけど、夢の中でいちいちコンタクトレンズや眼鏡を着けたり掛けたりするシーンなどがなくても夢の世界ではくっきりはっきり夢が展開されていくはず。

 

今までそんなことを考えたことはなかったけど、確かに夢の中ではずっと視力がよかったのに今日の夢では『目が悪い自分』の設定がちゃんと反映され、見事に世界がぼやけて表示されていた。そして眼鏡を掛けると視界の全てがくっきりと見えた。

 

何てことのない発見だけど、わたしにはこれが面白くてたまらない。

 

そして、夢の後半戦では『人間の自分じゃない設定の時』を体験した。

 

こちらはパッと見、人間のような姿はしてるのだけどなぜかラピュタのロボット兵のように両腕が地面に着くほど長く、実際に夢の中では指の腹でざらざらした地面をなぞりながら歩きつつ『飛びたい』と思った瞬間に軽く地面を蹴ったのち、地面から30㎝ほどの高さをキープしながらかなりの速さで滑るように飛んだ。

 

面白いのは、『人間の腕はこのぐらいの長さである』とか『人間は飛ぶことができない』とか『人間の自分の体型はこのような具合である』などの設定がそれを体験している時は華麗に無視されること。

 

どちらも同じ人間が観ている夢なのに、無意識にその時の自分をどのように設定しているかで全く違う体験をする。ずっとそうであったかのように何の違和感もなく今の自分を自分として捉え、自然に自分を体験をしていく。

 

みんなが人間をやりながら【これが自分】と思っている範囲がどれだけのものかはわからないけど、わたしは身体が自分だとは思っていない。じゃぁ何を自分だと思ってるのかと言えば【わたしという意識がここに在る】という『何だかわからないけどわたしが在る』という感覚だけが "わたし" なんじゃないかと今のところは思っている。

 

自分は〇〇である、自分は〇〇な状態である、自分は〇〇な人間である、などという設定を全て取っ払ったわたしという意識は、何にも縛られないまさに本当の自由そのものかもしれない。

 

だからこそ、敢えてここで設定に縛られて遊んでみているのかもね。なーんて、そう考えたほうが窮屈な世界も一興と思える。強がりかもしれないけど、わたしはそう思ってこの世界とここに居る自分を捉えているよ。

 

今日の夢の中のわたしは一体どんな自分になるのやら。自由に甘えてそもそも形がないかもしれないね。でも、どんな在り方でもわたしはわたし。楽しみにしていませう。

 

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