どうせ全ては不完全なのだ。
もっと言えば不完全こそが完全なのに、何をそんなに凝り固まって完全さを偽る必要があるのか。
変化が安定であるように、この瞬間ごとに不完全というゴールと完全というゴールを同時に切っているだけ。それだけなのに、なぜこの瞬間にはもう全てが完全だけだと決めてかかるのか。
全ては瞬間ごとに不完全を完結させながら完全なるバランスをとっている。毎瞬、毎瞬、動いている。完全さだけがあるように見えても不完全さは必ず同時に存在する。不完全を無視して完全だけにしがみつけば自分の内側も外側もバランスを崩し始める。
同じ写真を続けざまに撮っても、次の瞬間にはもう1枚目の写真とは違う世界にいるのに、頭は1枚目と変わらない世界にいると思っている。
大きな樹を見て『大きな樹』という完全さだけを認識するのか、それとも『大きな樹』であることと『この瞬間もこの樹は変化を続けている』という不完全さも同時に認識するのか。
毎瞬が完璧であることはどこかでわかっていても、毎瞬が途中でもあることを認められなければ下手な完全さだけに囚われていく。常に頭の中の完全を創ろうとし始める。
・自分
・善悪
・科学
目に見えているものだけで何とか組み立ててきたものに "絶対" などないと、さっさと諦めて『わからない』不完全さを受け入れてしまったほうがバランスがとれるものを『わかった』と言い切ってしまい完全さだけを無理矢理創ろうとするものだからますますバランスがおかしくなる。
瞬間ごとにあれもこれも不完全でいいじゃないか。
不完全があれもこれもを完全にするのだから。
傲っちゃやーよ。
不完全さも認めてさっさと楽になっちまいなよう。自分。