遠くで雷がゴロゴロいってるなぁと思って空を見上げたら立派な入道雲。
向かって左側が東。入道雲を境に黒と青が分かれている。
もくもくと黒味を膨らませていく雲を見ていると、桜島の噴煙にも見えてくるところが何ともかごんま(鹿児島)人ぽいのかもしれない…なんて思いながら写真を撮っていたのだけど、カメラをもって外へ出た瞬間に気づいたことがある。
遠くから雨の匂いがする。
雨なんて朝から一滴も降っていないのに東から雨の匂いが止めどなく流れてくる。雨の降り始めに嗅ぐあのアスファルト臭混じりの匂いじゃない、草木がしっとりと濡れた重くも心地よい香り。そんな香りは外へ出るまで想定していなかったから正直ちょっと驚いた。
この入道雲の写真を見てくれた人の多くも、まさかこの写真の中で雨の香りがしているなんて思わないんじゃない?ちょっと前のわたしがそうだったみたいに。
そんな体験をしたからか、ふと宮崎 駿さんの言葉を思い出した。
「漫画とかアニメーションばかり見ていると基礎になるものがなくなるんですよ。だから基礎がトトロでは困るんですよね。だって、それはきれいだとは言ってくれますけど湿度がないでしょ。映画には。」
土の色、木立の様子、夕陽の具合、あれもこれも全部個人の育ってきた環境や見慣れた風景、そこで得た体験によって描く絵も変わってくるという話をしたのち、上の言葉を話す前に宮崎さんはこうも言っていた。
「都会の人間は自分の夕陽をもっていないんです。だから東京出身の美術はあまり信用ができないんです。よっぽど勉強しないと自分の風土性がないから基礎になるものがないんですよね。」
わたしは入道雲も丸ごと見られるような田舎に住んではいるけど『きっとこんなもんだろう』という頭の想定で済ませている限りは住んでいる場所なんて関係なく頭の世界でしか生きられないのだと思う。逆に体験として触れてみることは面倒くさかったり厄介だったりする代わりに、自分だけの現実というものを実感をもって生きられるのだろうとも思った。
想定外の香りでほんのちょっとだけ頭の世界から脱出できたわたしの現実。こっちの感動のほうが嬉しくて好きだな。