察してくれなかったんじゃなくて、わたしを本気で信頼してくれていたんだ。
『察してくれない!わかってくれない!』と拗ねる時代は卒業していたけど、
その時代を思い出すと何だか腑に落ちていない気持ちがあるのも事実だった。
相手に心配や迷惑をかけそうだから、怒られそうだから、
どうせ真剣に聞いてもらえなそうだから、言っても自分が傷つくだけだから…。
早々に自分の気持ちを伝えることを封じると決め込んでしまったわたしは、
自分の我慢にも気づかないまま生きることになったけど、
まさか自分が我慢をして生きているだなんてことにさえも気づかない意識になった。
『親なのに』『きょうだいなのに』『友達なのに』
なんで誰もわたしのことをわかってくれないのか。察してくれないのか。
そうやって自分の我慢が爆発しそうになると誰かや何かのせいにしてきた。
それもできなくて自分のせいになっていった。
そうするしか術がないと思うほど、自分には言う権利や価値さえないって信じてた。
でも、自分も、そして全ての存在も【意識】というエネルギーで観た時に、
とんでもなく豊かで自由そのもので、可能性とエネルギーに満ち溢れている、
いや、本当はそのエネルギーそのものだとわかった時に見え方がガラリと変わった。
わかってくれないとひたすら嘆いていた時はあったけど、
わたしが「大丈夫だよ。」とウソをついたときも、
わたしが「全然気にしていないよ。」と笑って誤魔化したときも、
『あなたがそう言うなら間違いない。』と、
『可能性と自由さの意識そのものであるあなたが言うだから信じる。』という、
並々ならぬわたしへの絶対的信頼と尊重がそこにはただあったのだ。
わたしはずっと信頼されて尊重され、本気で愛されていた。
でもそれを素直に受け入れられなかったのは、
本来の自分の意識を見事なまでに忘れてしまい、
自分が自分を信頼できず尊重できず愛せなかったから。
わたしのウソを本気で受け取って信じてくれた人たちは、
本来の自分の意識を地で信頼しながら生きてきた人たちだった。
それだけだった。
誰も、何も、自分も、悪くなかった。
そう思うにも勇気が要るほど本来の意識からズレて、我慢してきた自分にも気づく。
自分を信頼するってさ、
言葉にすると何だか表面的でよくわからずに今の自分しか見られなかったけど、
見えている部分のことじゃなくて、もうすでにそこにあることを信じることだった。
そうやって自分を本当の意味で信じることができるようになったから、
そこにあった大きな愛に気づけて素直に感謝がわいたし、やっと腑に落ちて安心した。
迷子コースを選ぶと本来の自分を見つけるのに少し時間はかかっちゃうけど、
すでにあるし、見つけた時の喜びは表現しがたいほどで、
今までの点と点が結ばれていくのもよくわかる。全部大丈夫だったこともわかる。
わたしと似たように我慢してきた人もそれを思い出すことができるし、決められる。
そして今、どんな状態でも大丈夫なんだっていうのもわかる。
ちょっと小っ恥ずかしいなって思っちゃうけど、この気づきを1番に親へ伝えたい。
確かに親からイヤなことも言われたし傷ついたこともあったけど、
『察してよ』は完全に自分が諦めてしまっていたから起こっていただけ。
本来のわたしをいつだって信頼してくれていたことに感謝を伝えたい。
今ならもっと本気で言えるから。