ここ最近、言葉について考える。
人間が使っているこの言葉というやつは本当に便利だけど、
やっぱり全てをあらわすことは無理なのだと悲観でも何でもなくただそう思う。
『なにかはわからないけどそう思った』
『なぜかは知らないけどそうすることにした』
こういうなんだか掴みきれない感覚を体験している人は多いと思うけど、
この何とも言いようのない感覚の全ては、言葉や文字にしたとて自分が思うとおりには表現できないし伝わらない。
使う言葉にエネルギーをのせる。という手もあるけど、所詮はその程度で、
いわゆるテレパシー的な以心伝心的な暗黙の了解のなかでは言葉は重たすぎる道具だ。
言葉自体が自分なのだという見方はある意味で正しいのかもしれないけど、
言葉にできない感覚を、言葉だけで落とせない、言葉のもどかしさは事実存在する。
感じ取ったものを言葉にして何とか表現するコミュニケーションがメインになり、
それが当たり前になって、言葉に依存する。
言葉という道具を多くもっていることはより自分を表現できる術にはなるけど、
それを極めれば極めるほどちゃんと自分を表現できていて伝わっていると過信する。
熱いものが込み上げるなんて言葉があるけど、
その熱さとは何ですか?なんて刻んでいけば結局何だかはわからない。
言葉になりませんとはどういう感じですか?
なんて野暮なゾーンに突っ込めばこれまた何とも言えないとしか言えなくなる。
言葉では感覚を拾えない。
感覚を、言葉という道具に頼って何とか変換をしている。
それぐらいの認識じゃないと使い方を見誤るのではないかと思う。
漢字がたくさん読めて、単語をたくさん知っていて、本をたくさん読んで、
知識豊富で表現の幅が広いことは何ら問題ない。
けど、それらを使って自分の全てを表現して使いこなせている気になった途端に見えなくなるものがあると思うのだ。
雄大な自然の景色だったり、猫と一緒に寝転んでみる何気ない時、大切な人の笑顔。
言葉にはせずとも感覚だけでコミュニケーションができている時はごまんとあるのに、
伝える際にはこれを『息をのむ』『安心』『嬉しい』などとわざわざ変換をすることでしかわたしたちはコミュニケーションがとれなくなっている。
なにも悲観しているわけではないけど、
言葉は万能ではなく言葉で言い表せないことだってこの世界には溢れているんだと、
道具の小ささに気づいたら改めて言葉の面白さだって知れると思うんだ。
形あるものが全てじゃないというよりは、
形にしなくても本当は伝わっているものがあるんだと捉えたほうが、
より言葉を深くしていくんじゃないかと、拙い言葉を並べながら今はそう思っている。