天皇陛下からの栄典授与(勲章とか褒賞とかもらう仕組み)について、
思うことを少し書くね。
明治から始まってる栄典制度に対しては賛成も反対も特にないのだけど、
一個人として素直に思うことを書いてみようかなと。
そもそも、天皇陛下から~と言いつつ受賞者を決めているのは実質、内閣。
国事行為というやつで、内閣の助言と承認に基づいて内閣が責任をもつ。
『この人は叙勲に値する!』と思う人がいたら、
一般の人も直接、内閣府賞勲局へ推薦できる制度はあるけどね。一応。
とりあえず、漢字いっぱいになりそうな難しい話は抜きにして、
率直にこの制度で栄典授与されて何が嬉しいのか個人的にはさっぱりわからない。
『偉い人(だと思っている人)に認めてもらったから嬉しいの?名誉なの?』
なーんてド直球に聞くと怒られそうだが、
『いいえ。違います。』
と思う受賞者がいるなら、辞退すればいいと思う。でもほとんどの人は辞退しない。
そもそも何で受賞者を選ぶこと(制度)有りきなのかが1番の謎。
あ、これは反対ではなくて疑問ね。
何で誰かから "社会のため真に貢献した人" か否かを評価されて、
仰々しく選ばれなきゃならないのか?っていう視点。
少し前の資料だけど、
栄典制度改革の基本的考え方のなかで内閣府はこんなことを言ってる。
「信賞必罰」という言葉があるように、正しく褒め、正しく罰することは社会の秩序を維持する基本である。とりわけ、栄典制度は、国家社会にとってどのような行為や生き方が正しいか、というモラルを明らかにするものである。栄典が正しく行なわれるならば、人々がそれを一つの目標としながら人生を努力し、誇りを持って公のため働くことによって、社会の秩序と倫理が高められ、社会の活性化にも資することになる。栄典制度改革の意義は大きい。
抜粋した参考資料▼
栄典制度の改革について 栄典制度の在り方に関する論点の整理 : 日本の勲章・褒章 - 内閣府
【正しい】って誰が決めた【正しい】だろうね?
正しく褒められることを目標に公のために働くことが正しい生き方?
その生き方を褒められて喜ぶ人たちがいるのは別にいいと思う。
でも、 "そもそも" を考えてみることも必要なんじゃないの?とは思うわけ。
日本人だからこそ当たり前の感覚というだけで終わる話でもあるんだろうけど、
毎回仰々しく選ばれて受章した人たちが「大変栄誉な~…」って言う定例行事を見て、
わたしはいつも『?』っていう感じで終わってる。
どんな人から褒められようと褒められまいと、自分は自分だからね。
偉い人?から何か賜らなくても、毎日毎瞬、自分に褒章をあげたらいいと思うよ。笑
今日の褒章はアイス!勲章はチョコパイ!
セルフ受章最高~♡(*´д`*)