今ある、あらゆる可能性をわかった上で認めて通り過ぎる。
そんな高度な通りすがりになりたいと思う午前3時。
頭のなかのごちゃごちゃをアウトプットしてから寝たいと思う。
知り得た可能性が"ある"ということだけを認識して、
はァそうですか。と通り過ぎる。
その瞬間、もうその可能性に用はない。
文字にすれば簡単なようだが、シンプルなくせして実はこれがなかなかに難しい。
ついつい判断をし、
ついつい深追いをし、
ついつい飲み込まれる。
だが、それでもわかった上で通り過ぎる必要があると感じる。
客観的であってこそ、高度な通りすがりができるからだ。
量子物理学だったか何だったかは忘れたが、
人が意識を注いだ瞬間に目には見えぬ分子?が動き出すという結果が出ているらしい。
つまり、反芻したくないような重い感覚にフォーカスすることは、
怖いとわかっているのに何度もホラー映画の再生ボタンを押していることとイコール。
なのでここはひとつ。
あー、もう観たくない。あの時の思いを再度感じたくない。などと思うならば、
望まない感覚の正体を客観的に眺めて認めてさっさとそこから腰を上げるほうがいい。
(そのタイミングではない人は無理して腰を上げる必要はないと思う。)
わかった上で、氣にしない。氣をかけない。氣(エネルギー)を注がない。
そんな時もありましたね~。
そんな可能性もあるんですね~。
あるもんは仕方ないね~。
そうやって、"ある" ことを認めたらさっさと通り過ぎる。
通り過ぎたあとは潔く意識を自分の目の前に向ける。
反芻も面白い体験だが、反芻する体験自体を創りたくないならやはり通り過ぎるしかない。
あらゆる可能性を知ることは選択肢を増やすことなので必要だが、
知った場所で重い感覚を感じたらさっさと望むほうへ意識を向け、
その場からさっさと通り過ぎるが吉。
という感じで、とりあえずざっくりだけどアウトプットして整理できたかな。
もうすぐ4時半。
寝ることにも意識を注がないとだね。
おやすみ。