燻された全身に加え、
手からは金属や錆などの硬い匂い。
自分の1日を物語る香りは少し誇らしく、
まだ消したくないという思いにすらなってしまう。
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大きな筍をたくさんいただいたのは良いが、
台所の火力だけで湯がくのは長期戦になるシナリオだ。
「火を焚いて、釜で湯がこう。」
と言い出したのは父。
台所が大量の筍で占領されず早く処理できる上に、
何時間も火力を保つことで出て行くお金が浮く案に母も乗り気だ。
もちろん、その話の横でわたしも乗り気。
今までさんざん筍を食べてきたのに、
皮を剥いたことなんて1度もなかった。
こんな良い機会はないと、春の筍釜ゆで大会に早々と参加表明をした。
久々に小雨が降り冷え込んだ今日は、息が白い。
屋根の下。
雨に濡れない場所で新聞紙を広げ、包丁片手に手際よく筍を可食部だけにしていく母。
その一連の動きを観察後、包丁のバトンを渡された。
皮にやわらかな産毛があること、交互に折り重なった皮の芸術的なこと、
可食部がピラミッドのようにきれいな三角になったときの喜び。
『へぇ~。君、こんな風になってたのねぇ…。』
などと、
筍と話す日がくるなんて思わなかったが童心に帰り全ての筍を白くした。
(敢えて帰ってます。笑)
少し離れたところでは父が竈に火を起こし、
母はわたしが筍と話している間に米のとぎ汁を準備していた。
なんという軽快な連携プレー。
筍も惚れ惚れするトリオだろう。
釜の中には白いとぎ汁に白い筍がセットされ、
発掘されたお釜の蓋もその上に堂々と鎮座した。
もはや、日本昔ばなしのワンシーン。
父と交代で火の番をしながら待つことしばし。
釜が吹いてきたタイミングで蓋をずらし、さらに茹でまくる。
蓋を完全に取った時の見た目は地獄の一丁目だが、
ゴボゴボと豪快な音がたまらなく心地良い。
煮え滾るとはこういうことをいうのだろう。
1時間もしないうちに全ての筍は無事に茹で上がった。
竈から火と釜を外し、そのまま冷ますことにした。
冷えるのに時間はかかりそうだが何せ放置するだけなので気にしない。
昼食もそっちのけで開催された春の筍釜ゆで大会は無事に終了した。
が、
祖父母宅の工具箱に何故か眠っていた古い包丁を父が見つけたことで、
別の大会の開催が決まった。
春の包丁研ぎ大会だ。(つづく)