とある声優さんがこんなことを言っていた。
「自分が出せる声の音域を広げることによって、
うなり(倍音)が生じ、地声に味が出てくる。」
「地声だけがいい奴は訓練せず地声だけで勝負するから、
それはどうしたって味が全然出てこない。」
この言葉を思い出した時、
わたしは新聞紙にジェッソ(下地用絵の具)で書き殴った自分の絵を観ていた。
一面に数字が並ぶ株式の黒いページに白い線が不気味に重なる。
さらに生理2日目ということも重なっていたからか、
14時間もベッドの中で見た夢の内容はひどいぐらいの悪夢だった。
細かいことは伏せるが、火サスも引くような残酷なシーンの連続で、
半分起きながら『こんな夢…血圧上がるわ!』と頭が身体の心配をしていた程だ。
別に絶望しながら寝たわけでもないが、
気怠い身体を纏って起きるタイミングを窺っている間に、
夢の内容を潜在意識の表現として考えるならば確と観る必要はある気がした。
観る方法はいくらでもあるだろうが、今回は何となく出すことにした。
床が汚れないように新聞紙を重ねて敷き、1番上の新聞紙が黒いキャンバス。
頭に浮かんでいた目の絵から描き始める。
その目の中には眼球が3つ。瞳孔は飛散。目尻は尾羽のようで兎に角意味不明。
全てを描き終わったのちには【混沌の目】と名付けてやった。
心の底に溜まったヘドロ状の重い気持ちを形にすることを初めて許した結果、
案じていたとおりの大変不気味でひどく苦痛に塗れた絵が完成した。
物質として表れたそれは、
すぐにでも炉の中で火にかけ燃やし、消滅させたい。
そんな気持ちにさせる絶大な存在感を放っていたが、
もちろん紙は燃え朽ちても、わたしの心は燃えないし消えない。
絵の不気味さに怯えず怯まず、
ただそれが、わたしの中から出てきたこと。『ある』こと。
を認めるためにそれを静かに観続けた。
描くために広げていた道具を片付けながら1時間ほど絵と付き合っていると、
冒頭に書いた某声優さんの言葉をふと思い出し、自分のことに当てはめた。
重い気持ち(低い音)、軽い気持ち(高い音)に善悪はない。
むしろ、ただ『ある』からこそ響きが増す。
今まで体験した様々な思い(波動=音)があるからこそ、
今、表現している命に豊かな響きを纏わせることができているのではないか。
わたししか奏でられない音=存在感。を自然に生み出しているのではないか。
『早く消えてくれたらどれだけ楽か…』と事あるごとに願いがちの重い気持ち。
でも、重さもまた自分のエネルギーであり鍵盤の一部であることを理解できれば、
『重さと軽さ両方あってこその今のわたし(ハーモニー)だよね』
と自然に自分を認められないだろうか。
そんな問いを繰り返した結果としては、
自分の中にそれがただ『ある』ことにとりあえず同意できた。
それがあることによって今のわたしが奏でられていることにも納得し感謝もわいた。
その瞬間、
不気味で消したいほどイヤな絵は、ただそこに『ある』絵になった。
重い感情の認め方としてはけっこう簡単で面白くできたかも。
もちろん、重さの中にある寂しさや悲しさ等に寄り添うことも大事だけれど、
わたしの場合は『認めたあとは手放す』ほうへ目的が変わってしまっていて、
本当の意味で自分のなかに『ある』ことを認められていなかった気がする。
『わかったから早く消えてね』は、存在を認めない言葉だもんね。
そりゃ慰めても感謝しても消えないよなぁ。
とまァ、
落書きをしたおかげでまた自分の味が一段と深みを増したんじゃないかという話。
きっと今日の夢はあたたかくて美味しい夢のはず。
期待して寝よう。おやすみ。