『そろそろ玄関のリースを新しいものに変えようか。』
そう思ってフと考える。
『2月あたりに咲く季節の花って何があるだろう。』
そう考えた途端に気づく。
『いや、季節の花はあれど2月の花と呼べる花はないな。』と。
いやいや、2月にも花は咲きますよ。と言われればその通りなのだけど、
『これが2月に咲く花です!』と断言できる花はどこにもない。
例えば、水仙は春の花だと言われる。
けどどうだろう。
わたしの住む場所では水仙は12月に花開く。
一方、北に住む人はこう言う。
『水仙は4月~5月の花でしょう。』
桜も同じ。
わたしの住む場所では3月には全て散ってしまうが、北では5月頃に花見だと言う。
関東あたりでも3月で終わってしまうのは狂い咲きだと言われた身内もいる。
季節の花は確かにある。
でも、○月に咲く花です。と言い切れるのは、あくまでも自分の住む場所での話。
そんなことは正直どうでもいい話だと思うのだけど、
何気ないことで自分の当たり前や常識にフと気づいて立ち止まる自分が其処彼処にいる。
リースの花を何にしようかと考えるだけで、
立ち止まって考えるわたしは少し、いやだいぶ変わっているのかもしれないけど、
これが自分の当たり前なんだなァと更に気づくわけだから考えにキリがない。
『さて!考えは尽きないでしょうがユキコさん。改めてどんなリースにしましょう?』
考えが一区切りする間もないから、
こうやって無理矢理にでも自分の考えの矛先を変える。
これがわたしの不器用で豊かな日常だ。