最近、母と話していて衝撃を受けた。
『そういうことだったのか…!』
という具合にようやく気づいた。
何にかといえば、
悩める自信ナインジャーの皆様もご存じ。
誰かへ相談した際の、
「誰にでもあるよ。」
そう、この言葉である…!
わたしはそう言われるたびに突き放された気分になり、毎度同じことを思っていた。
『そんなことはない』
『誰にでもあるなら何故この気持ちがわからないのだ…!』
『本当に同じだったら、わたしのようにもっと思い悩むはずだ。』
『もっと生きづらいはずじゃないか…。』
と、考えれば考えるほどイライラしてきて、
結局なにも解決しないゾーンへと毎度見事に誘われるのだった。
しかし、母と入念に話を進めた結果、意味がわかった。
わたしを含めた悩める自信ナインジャーさんたちは、
ひとりで堪えて考えて悩んで悩んで悩み抜いた末、
もうだめだ…!という時に、はじめて勇気を出して誰かへ相談をし始める。
つまり、なにか事が起こってからある程度もしくは相当の時間が経過している。
感情のコントロールができずに物事への区切り、切り替えができていない状態だ。
一方、その逆でそれらの切り替えが上手な人たちもいる。
この人たちも同じように問題にぶつかった時は同じように悩む。
だが、
生活全体を見て判断し行動できるので一瞬落ち込んだり悩んだりしても、
『これはこれ、それはそれ』『解決のために今できることをしよう』
という具合で次のシーンへさっさと移っていく。
ここで気づいた方もいるだろう。
そう、
「誰にでもあるよ。」は、
『誰にでもそういう物事や問題は起きて悩むことはあるよ。』
という起こった 瞬間 のワンシーンを指しているだけだった。
相談する側からすれば長く苦しんだため共感してほしい気持ちもあるが、
聞きたい最重要ポイントは
『どうしたら感情のコントロールでき、区切りや切り替えができるだろうか』だ。
しかし、その最重要ポイントを意識することなく自然とこなしている人たちは、
相手がまさかそんな段階で止まっているとは思わない。
『みんなも普通にやっている』と無意識で思っているので、
なぜそんなに問題に執着するのかが理解できず
「考えすぎだよ~。」というド定番の流れとなる。
正直、これに気づいた時は『よく考えれば当たり前じゃん…』と思ったが、
人それぞれがもつ無意識の土台(当たり前や思考クセ)が違うのだから、
井の中の蛙が川や海を知るまで時間がかかるのはしょうがない。
もちろん相手側から見ても同じ。
「誰にでもあるよ。」と言った人たちは、
相談した人をけなしていないし、責めてもいない。
ただ自分の体験を話していただけだった。
よく聞く言葉だっただけに、1つ可能性が増えたことでかなり安心した。
そして改めて思った。
切り替え上手な人たちはたくさんの『手札 (選択肢)』をもっているな~。と。
自分を客観的に捉え、物事を多角的に見て、自分が進みたい方向へ歩き続ける。
わたしもそんな楽ちん切り替えができるように焦らずゆっくり歩いていこう。
わたしの質問に何度も何度も理解不能になりつつも、(笑)
話を丁寧に聴き、素直な気持ちを伝え教えてくれた母に感謝。ありがとう!